2001年1月3日水曜日

モモ/ミヒャエル・エンデとオモチャと癒しについて

なぜ、新年早々 児童文学なのかは昨日書いた。


読んでみて、話の秀逸さには驚くばかり。テーマとしては、映画にもなった「はてしない物語」と類似しているが、そのファンタジーの豊かさは強烈である。(「モモ」も映画化されているらしいが)


時間泥棒という発想が面白い。児童文学ではあるが、大人が読んでも身につまされる話である。「時間がなく、アクセクと効率のみを追い求めて、生活している今の人生」というものが、一体何なのかと考えさせられてしまうのだ。本当の豊かさとか、幸せというものが何か、これを改めて問い直されるのは、現代に生きる人にはつらいものがあるかもしれない。


 今まで、モモの友達だったベッポや、ジジ、そして子供たちが変わっていく姿は悲劇を通り越して、哀れでさえある。でも、今の自分たちの生き写しじゃないか! じゃあ、我々こそ哀れなのか?と自問せざるを得ない。自分たちの子供には、想像力をスポイルさせる(とエンデは言うだろう)オモチャやらTVゲームを買い与えながらも、遊ぶ時間は制限して勉強や塾を強いる。


もはや我々は、モモやベッポにはなれないのだ。だからこそ、ファンタジーなのだろうか。


ふとシンクロするものがある。元旦に見たフジテレビ「世にも奇妙な物語(SMAP主演)」。草薙くんの出ている2番目の話である。

話のテーマは違うが、バリバリの資本家だった彼(草薙)は、理髪店での奇妙な時間を経験(全く違う価値観を有する世界がそこにあるわけだ)する。いったん、そこの秩序を受け入れてしまうと、そこから出ようとしたときには、もはや、もとの世界には戻ることができなくなってしまっていた。


もうひとつついでに、オモチャといえばだ。「モモ」の中には、「完全無欠の人形」てのが出てきて、これでは子供たちは「本当の遊びができない」と書かれている。完全無欠の人形は、少しばかり言葉を話すためオモチャが遊び方を限定しすぎる、てなことだった。


ところで、元旦の朝日新聞(元旦特集かな)を見ていたら、SONYのアイボで癒しを得ている50歳過ぎの女性の話が掲載されていた。

私の母もXmasに、刺激を与えるとしゃべる人形が欲しいというので購入した。1月3日の朝日新聞は「日本の予感」に、SONYのアイボについて「コンピューターは効率を追求してきた。アイボはハイテクだが、あえて何の役にも立たないロボットを目指した。そのギャップがいやしや共感を誘うのではないか」とあった。


1日に話題にした、貴志祐介の「天使の囀り」の中で、オタク信一に、「TVゲームを大人たちは悪く言うが、TVによって計り知れない癒しを得ているんだ」みたいなことを語らせている場面がある。


私は、実は 全然ゲームてやらないのだが、(なんと「時間がもったいない」気がして!!!) 「モモ」とは全然話微妙にずれていくけれど、オモチャやゲームの与える癒しとか、「もったいない時間」て何なんだろうて、ふと考えてしまった。


考えを深めると「意味」ということにも通じてゆくのだが・・・・


児童文学といえば、おととしあたりから話題になっている「ハリーポッター」。あれも息子と争うように読んだが、個人的には世界的ベストセラーとなる理由が良く分からないのであった。これについては、機会があれば書きたい。