2001年1月10日水曜日

沢木耕太郎:血の味

一息で読ませる、力強さ。しかし、勢いを得ても、ほとんど感想が書けない。トンチンカンな文であることを承知の上で、あえて書こう。本をこれから読む前の人は、本文を読まない方がよいと思う。

十五歳の彼が殺したのは父であった。しかしいわゆる尊属殺人というのとは意味合いが違うようだ。

読む前は、最近17歳に多発する少年犯罪がテーマかと思った。それにしては舞台背景が古い、10年以上前の日本のようだ。そのことに違和感を覚えながら読み進めた。少年のもつ苛立ちや不安は共感することができる。決して劣等性というわけではない少年だが、うまく学校や友人となじめず、かといって妥協やおもねりもしないその姿は、孤独であるが純粋にしてもろい姿に写る。つかみ所がない少年の心。浮遊した苛立ち、ズボンのポケットにナイフを忍ばせておかなくてはならないという危うさ。ナイフ=防衛と攻撃のための武器。それは自分を補完し完全なものと錯覚させる。いざとなれば何でもできるという自分を拡大させる魅力を持った反面、それを使用することは大きな不幸を意味するように思う。

少年が走り幅跳びを跳べなくなったのはなぜなのか。現実世界とのつながりがなくなってしまう不安と恐怖。少年は常にそのような不安を持ちながら、生きていた。自分を補完し現実世界につなぎとめるための錘として必要だったのがナイフだったのではないか。人に向ける刃としてではなく。でも、少年の孤独な心は理解できても、少年がどこに向かってしまうのか、不安を感じずにはいられなかった。

少年が、次第に心を開く相手は、かつては売れないボクサーであったオカマのサンドイッチマンという、二重に屈折した人物だった。彼も孤独であり、また純粋であったように思う。少年は、彼と話すことで次第に心が開かれてゆく、それは少年時代特有の「本物」への憧憬にも似たものだったのかもしれない。または、ある種の親近感であったのかもしれない。世間に背を向けた中でのネガティブな共感。

破局が現れるのも、半ば予想できる範囲であった。男の嘘と汚さが見えた瞬間に憧憬に似た気持ちは汚され、侮辱される。少年の少年らしい心が発露されるのはこの部分だ。しかし、汚されたことに対する復讐というストーリーは安易すぎる。これは屈折した青春の再生のストーリーではない。沢木はそんな陳腐な小説を書いたのではなかったようだ。

少年の理解者は、昔演劇の脚本を書いており、その残り香をくすぶらせて生きている教師と、彼を見つめる同級生の女性、それとオカマの三人だけ。三人とも「本来の自分」でない自分を生きていかなくてはならないという哀しさ。男が「行ってしまうと、あんたは」と叫ぶ場面は、彼を理解する誰もが「どこかに行ってしまう」ことが見えていたのか。

では、少年は「どこ」に行ったのか。

一方で、「どこか」に行かず、あるいは「どこか」から逃げてきた男がいた。少年の父だ。少年は結局、父を殺す。なぜ父を殺さなくてはならなかったのか。あるいは、一体彼が殺したのは父だったのか。その後の彼は、過去を封じ込め現実世界との接点を持ちえたかにみえたが、それは破綻してしまう。

もともと、現実世界と深く関わっていくことができない、孤独な心をかかえた彼ら。自分の中での本来の姿を実現できない彼ら。少年の父にも、サンドイッチマンにも、そして平岡にも、挫折したカシアス内藤のような姿がだぶる。彼が殺したのは、「どこか」から逃げることで一度死んだ彼らを、彼ら自身がもういちど殺すということなのか、二重の意味での殺人と、ネガティブな再生か。

沢木がこの小説を書き始めたのは15年前だという。それからこの小説の持つ意味が自分でもわからず、最近やっと書き終えることができたらしい。沢木は「どこか」自体を追求している作家ではなかったか。

 一度読んだだけでは、謎の多い小説だ。持っているテーマは沢木特有の挫折した人生に対する鎮魂とも重なるようで、重く深い。

 私の書ける感想は今はここまでだ。