2001年1月27日土曜日

柳美里:命・魂

柳の小説を読んだのは昨年話題となった「命」がはじめて。昨年の秋に読んだ。

ほとんど実話に近い赤裸々なドキュメントとして話題になった小説である。(小説というより手記といった方が正しかろう)

芥川賞作家が私生児を生んだ」なんていう下世話な話しが、なぜそれほど感動を呼び起こしているのかと疑問を持ちながら本書を手にした。

しかし、読んだ方はお分かりだと思うが、「スキャンダル」などという言葉は、何の意味をも持たないと思えるほどの壮絶な手記であった。生きることがかくも行きづらいものなのか、彼女を何がここまで追い詰めるのかなど考えながら読み進め、そして読後にある種の言葉にできない衝撃を受けていた。

彼女と、彼女が生もうとしている子供と、今まさに末期癌に患っている東という恩師(というにはあまりにも説明不足な関係だが)。その三者を中心として生へ執念と、また深すぎる愛、生命力、それと裏腹の涙と絶望と裏切りを、嫌というほど思い知らされるのである。いやはやとんでもないものを読まされた。

一方で、内容に衝撃を受けながらも、「周りにこんな女性がいたら、とてもじゃないがついていけないな・・・」とふと思ったものだ。感情が、命の起伏が激しすぎるのだ。それは、柳を読むのがはじめてだからそう感じたのかもしれない。(「家族シネマ」も読んでいないんだから・・・)

「魂」は「命」の続編であるという。「命」の中で丈陽が生まれ、東はまだ生きていた。だから「魂」は、丈陽が生まれてから、東と柳の育児と闘病生活の過程が描かれていた。

「命」はどちらかというと、柳と生まれてくる子供というものを、東を対比させることで書き出していたように思う。癌に冒された東をベースとして、自分が新たに子供を生むということを掴み取ろうとしているように思えた。

「魂」では、全力投球で東との最後の関係を書ききっている。微塵の迷いもない。もはや丈陽でさえ、東との関係を成立させるための題材としか思えないほどの強さだ。

東の激しい性格と、まさに「闘病」とも言うべき、すざまじい生き方、それを支える柳や周りの知人たち。こう書いてしまうとただの「闘病手記」みたいだが、内容はそんな生易しいものではない。

あまりにも大きすぎた東の存在が消えてしまうことを許さないという気持ち、「わたしは治癒と忘却を拒絶する。痂ができたら爪を立てて毟り取り、血を流しつづける。」と彼女は書くが、書かずにはいられない、あるいは書くことがすべて、あるいは文字通り生きるために書くという作家としてのすごみ。生きていた東と自分を書ききることは、自ら血を流すような行為のようにさえ思える。でも血を流すことでしか今の実感と生きてゆく強さを得られないとしたら、なんときびしいことか。

昨年の春に、私は実父を膵臓癌で亡くした。だから、闘病の姿や医者の態度はあまりにもリアルすぎる。

でも、前回と同じように柳や東の生き方に強く共感を覚えるという気持ちを抱くことはできなかった。やはり、「ついてゆけない」と思ってしまうのだ。

そうは思いつつも、余りにも見事というべき生き様、強さともろさと、危うさのバランスは読み始めたら頁を繰るのを止めることができなかった。

柳という作家の何たるすごさよ。全身に身に付ける硬い鎧のようなものが見える。なぜにここまで不器用に生きる、なぜにこんなに真実に対してストレートなのだ。

現代の日本に生きる者たちは、自分を誤魔化すこと、突き詰めないこと、責任を回避すること、傷つかないこと、そしてあきらめることが上手だ。こんな手記(小説か?)を読むことは、自分やふわふわしている今の日本へ刃を突きつけられたような思いさえする。


作品の内容とは関係ないが、気になった点を二つばかり。

東に治療を受けさせようとした病院や医師の名前が出てくるが、あれは実名か? だとすると否定的過ぎる部分は大丈夫か?

今回も前回も、表紙や扉の写真は篠山紀信が撮影している。特にお宮参りの写真など、東は病院から駆けつける状況で神社に行ったはずだ。あれだけいろいろな人が出てきているのに、どうして篠山ほどの人についての言及がひとこともないのだろう・・・ まあ、内容にはほとんど関係ないので、どうでもよいのだが。