2001年2月15日木曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルの交響曲第4番

交響曲 第4番 ヘ短調 作品3
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1976
DG POCG-3870/1(国内版)

チャイコフスキーの交響曲第4番というと、4楽章があまりにも有名である。中学時代に吹奏楽を経験された方であれば、自由曲として演奏したことがあるかもしれない。ついもすると、有名な4楽章ばかりに気をとられてしまうのだが、シリーズを書くに当たりこの曲を何度も聴くことで見えてきたことがあるので記してみたい。ベースとした盤は、上記のカラヤン・ベルリンのものである。

曲について

��楽章はヘ短調である。象徴的な運命を象徴するような、暗く断定的なテーマで始まる。ベートーベンの交響曲第5番ではないが、さながら「運命の動機」である。チャイコフスキーに特有の宿命のテーマ (Fate motif) と呼ぶ人もいる。運命の動機は、弦のせかせるような旋律と交互しながら何度も現れる。途中で賛歌的なところや美しい緩やかな舞踏の音楽も現れるが、楽章全体を支配しているのは、いかんともしがたい暗く不安な動機である。たとえば8分前後からの部分、喜びのテーマが高らかに、しかも力強く奏されるのだが、すぐその後で下降旋律が導入となり運命の動機へ直結してゆく。

聴くものは喜びと不安が交錯した感情を抱くが、この楽章から受けるのは自分の力ではどうしようもない、まさに「宿命的な力」の前に諦念さえ覚える。このような音楽のありようは、フォンメック夫人に出会う前のチャイコフスキーの心理状態を表しているのだろうか、あるいは浮いては沈む芸術家としての苦悩なのだろうか。多くの要素が詰め込まれた非常に長い楽章である。

��楽章は舞踏の曲だが、支配するのはロ短調という象徴的な調性である。舞踏としての華やかさや軽やかさよりも、憂鬱さや移ろいやすい不安を感じる楽章だ。捕らえどころのないこの楽章だけ、何度も聴いてみたが、なんともすわり心地の悪さを覚える。カラヤン・ベルリンの絶妙なるハーモニーで聴いてもだ。

��楽章は脅威のスケルツォ。弦のピチカートの動きは、音楽を聴くものの足を地に付かせず、爪先立ちのまませかされ、どこかに移行するかのようなイメージを湧かせる。中間部の木管と金管群の絡みも見事であり、色彩感のある楽章だ。最期は再びピチカートに戻り、曲は進みせかされ消えいるように終わる。

そして、3楽章の静寂を一気に突き破るかのような、4楽章のExplosion、突然ともいえる堰を切ったような大爆発に度肝を抜かされる。感情の暴発といってもいい。今までの不安感を吹き飛ばし、全ての感情を飲み込む勢いだ。そしてすぐその後に、ロシア民謡からのテーマが展開されるが、この華やかな喧騒のメインテーマの裏側では、やはり運命の動機が用意されている。今まで歓喜に叫んでいたのに、あたりを見渡すと1楽章の運命のテーマに移っていることに気づかされるのだ。しかしながら第4交響曲において最終的な曲としての結論は、避けられぬ運命ではなく、「ばか騒ぎ」とさえ思える喧騒さと歓喜だ。ホルンの不思議な助走から、再びめくるめく第1テーマが再現され、突き抜けた歓喜を歌い曲を締めくくる。

長々とへたくそな解釈を書いてみたが、彼の初期交響曲でも不安や喧騒は曲にこめられていた。しかしこの曲と比べてみると、作曲者自身の内面に切り込むようなものではなく、第三者的な描写に留まっているように思える。第4番交響曲では、はじめて赤裸々な等身大のチャイコフスキーが曲に表現されているように感じられる。ベートーベンの5番「運命」のように、苦悩からの再生に向けてのドロドロした感情とまでは行かないが、チャイコフスキーの繊細な感情の揺れ動く様が、チャイコフスキーとしての様式感を感じさせながら表現しつくされていると言ってよいと思う。またこの交響曲には、鬱的な宿命論を全面的にまだ受け入れるのではなく、それをはね飛ばすエネルギーがみなぎっていると思う。

こうして聴いてみると、初期の三つの交響曲と比べ音楽的に成長した姿を見て取ることができる。また「宿命のテーマ ( Fate motif )」というものが、チャイコフスキーに投げ掛ける意味ということも考え合わせると、今までの交響曲とは1線を画すものであることがわかる。色々な意味において、やはり第4番交響曲の人気の高いわけも、彼の代表作とするのもむべなるかなと改めて認識した。

カラヤン盤について

カラヤン指揮、ベルリン・フィルの76年版といえば、カラヤンの絶頂期の演奏と言ってよいかもしれない。

この盤を聴いてまず感じるのは、消え入るようなppから壮大なffまでの(もしかしたら、4番もpppとかfffという標記があるのかもしれないが)驚くほどのダイナミックレンジの広さである。pppを聴き取ろうとしてボリュームを合わせると、間違いなく4楽章の冒頭ではその大音響に耳を覆ってしまうだろう。ff部分のすさまじいばかりの迫力は、まさに音の塊が洪水となって聴くものを包み込んでしまうかのようである(観てはいないが、さながら映画「パーフェクト・ストーム」だな)。

��fの一瞬後、ホール全体の空気が振動しているかのような残響音や、息を呑むほどのppの弦や木管の美しさなど、どこをとっても「シンフォニーの色彩感を楽しむ、音楽を聴く」という喜びに満ちている。

��楽章の断定的な宿命のテーマも迫力十分で迫ってくるし、4楽章の冒頭などその音量とスピード感から、ほとんど眩暈を感じてしまうような陶酔感さえある。全体に、豊穣にして琥珀色のような音楽が展開されていると言えようか。

私のチャイコフスキー原体験はこのカラヤン・ベルリンで刷り込まれている。したがって、この盤を聴いた後の充実感は格別であるのだが、ふと考える。チャイコフスキーの目指した音楽は、果たしてこの盤のような演奏であったのだろうかと。それに対する回答は、他の多くの演奏に接していないため、今のところ留保しておこう。