2001年2月22日木曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる交響曲第5番

交響曲第5番 ホ短調 作品64
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1975
DG POCG-3870/1(国内版)

曲について

第4交響曲の10年後に書かれた交響曲であり、チャイコフスキー円熟の時期の作品と言っても良い。第4交響曲で示された「運命の主題」が明確に打ち出されている。

第1楽章は、まずクラリネットにより「運命の動機」が奏される、暗く物憂い主題だ。これは全楽章を貫く本交響曲の主要テーマであるばかりではなく、交響曲第4番で提示された「宿命」に対する、ひとつの回答でもある。

第2主題は切迫感を持ちながら、高揚してゆくように書かれている。中間部にゆったりした優しい部分や、昂ぶりを表現するようなテーマも現れるが、この楽章を聴いて受ける印象は、宿命に対する諦念や屈服感の方が強い。オーケストレーションは木管の響きと弦のゆるやかな歌いとピチカートなどが随所で聴かれ、多彩なオーケストレーションの楽しめる楽章になっている。

第2楽章は最初、弦の暗い旋律で始まるがその後のホルンのテーマは息を呑むばかりだ。私はマーラーのアダージョ楽章を知った後であっても、この楽章特有の美しさに、聴くたび心を打たれる。それは作曲家の心の深淵に迫るような、深く暗い森と湖が心象に浮かぶ。湖面には波ひとつなく晧々とした月明かりが映し出されている。あるいは、人生や仕事に疲れ、暖炉の前の椅子にもたれ深く昔を想うような、そんな優しさと哀しさにあふれた音楽だ。昔日のことを想い心さざめく瞬間があっても、そこには全てを受け入れた受容があるような気さえする。

中間部に「運命の動機」の変形が高揚感を伴って現れるところから、ピチカートを伴奏にした弦とオーボエの掛け合いの部分は、体の奥底に不思議なエネルギーを湧き出させているようである。突然訪れる「破」は人生の突風かはたまた、運命からの逆襲かと思わせるが、再び静かなテーマで楽章は締めくくられる。何時の間にかまた暖炉の前の椅子に座っている自分に気がつくのだ。

第3楽章はワルツだ。チャイコフスキーは今までも、交響曲の中に盛んにワルツ、舞踏の曲を挿入してきた。ここでも踊りは踊られるが、どこか淋しげであり、またファゴットによる不思議な跳躍旋律に代表されるような、独特のユーモラスさがある。しかし、この楽章も4楽章の主題が先取りされているようで、経過句的な意味合いになっていることにも気付かされる。

そして第4楽章である。運命のテーマは再び形を変えて堂々と奏される。これはこの楽章を貫くように流れる主要テーマだが、1楽章で聴かれた諦念はない。リズムに象徴されるように淡々と歩み始めているのだ。弦の伴奏が複雑な動きをしており、内的なもやもやを表しているかのようだが、そこには毅然とした決意が見て取れる。

��分前後からの部分は、歩みを速め疾走感がいやがおうにも増してゆく。もはや、運命は追いついてはこれないほどの爽快さだ。この楽章を聴くと、ややもすると、冷静な思考が私はできなくなってしまう。トロンボーンからトランペットに引き継がれる上昇音形のあたりになると、もう空を飛ばんばかりの快感である。考えてみると、ここらあたりを作曲者自ら「過剰すぎる」と称したのだろうか。

第4交響曲では運命への抗いを、馬鹿騒ぎとさえ思える喧騒で紛らわせた。ここに至っては、受容あるいは共存、そして疾走という相反する対応で逃げ切っているように思える。提示された運命の強さは、第4交響曲に示されたほど断定的でない点も、特徴かもしれない。

もっとも以上の解釈は、いままでの一連の感想と同様に、私個人の感じ方がベースになっている。厳密にチャイコフスキーの自伝や作品解説には違ったことが書かれているかもしれない。

カラヤン盤について

以上のことを、中学時代に刷り込みを行ったカラヤン、ベルリン・フィル盤(75年)より改めて聴き取ったのだが、書いていて非常にまだるっこしい。私の好きな曲にも書いたが、この曲は本当によく聴いたものだ。はっきり言って「運命の主題」だの、そんな能書きはどうでも良いのである。こんな風にこの交響曲を解釈したのは、実は今回が始めてだ。いい加減なリスナーなのである、本来は。

第2楽章のホルンの奏でる旋律の美しさで、私の脳内に麻薬物質がばら撒かれてしまい、3楽章のちょっとした休息のあと、第4楽章に至るともはや思考能力はなくなり、曲の疾走に身を任せるばかりとなってしまう。

この版の特徴としては、やはりベルリン・フィル奏者のソロ部分の美しさや抜群の合奏力が挙げられると思う。トロンボーンの音色や、2楽章の甘美というには言葉が足りないホルンの響き、随所で重要な役割を果たすクラリネット、ティンパニーの叩きなど(ものすごくクリア!)、数え上げればきりがない。チャイ5の権威 みっふぃーまにあ さんは、「合奏力はピカイチだが、いまひとつ」というのだが、私はこの合奏力の高さには脱帽せざるを得ないし、物凄いまでのオーケストラとしてのまとまりと、そこから生み出される緊張感があると思うのである。

カラヤン・ベルリンの4番交響曲においても書いたが、シンフォニーを聴くという面白さを中学生の私に開眼せしめた1枚であるし、4楽章の疾走部の眩暈を感じるような快感は、やはりこの版に特有のものだと思う。私はこの1枚を転校した友人に餞別としてあげてしまい、以来十数年この演奏を聴かずにいた。改めてCDとして聴いたときに「やっぱりこれだあ!」と叫んでしまったものである。なんとも、幼いころの刷り込みとはげに恐ろしい・・・

ただし、である。さんざん誉めておきながらであるが、この演奏がチャイコフスキーの目指した「5番シンフォニー」であったのかは分からない。「何か違う」と心にひっかかる部分があるのだ。みっふぃーまにあ さん推薦のカラヤン・ウィーン(84年)は聴いていないので、機会があれば比べてみたい。