2001年3月12日月曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 マゼール指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第6番

交響曲第6番 ロ短調 作品76 「悲愴」
指揮:ロリン・マゼール
演奏:ウィーンフィル
録音:1963
London 430 787-2(輸入版) 

チャイコフスキーは「情」を表に出した作曲家であるということは論を待たないだろう。悲愴交響曲が、チャイコフスキー自らの遺書とかレクイエムであるとの解釈も、先のカラヤン盤を聴く限りにおいては納得のできるものではあった。しかしチャイコフスキー自身としては、特定の人物や事件を想定したような「標題性」までは、この曲に付与してはいないのかも知れない。

マゼールのチャイコフスキーをここまで聴いてきて感じるのだが、全てにおいて非常に新鮮な切り口を見せてくれたように思う。悲愴においてもマゼール演奏を聴くことで、何度もはっとさせられる思いがした。

マゼール・ウィーン版で特筆すべきは、弦楽器群の美しさもさることながら、旋律と対旋律やバックの動きが非常に明確であり、曲の持つ構成美を見事に表出してくれていることだ。耳を良く澄ますと、色々な動きが聴こえてきてチャイコフスキーの言わんとすることがストレートに伝わってくるかのようだ。また、「若々しさ」とか「荒々しさ」、キビキビしたスピード感などという表現も何度も使ってきた。この演奏においても、切り口が鋭く鮮やかさであり、演奏に今までにない凄みを与えている。重心が低くない演奏であり、それ故、鋭い刃物で切りつけ、あたかも鮮血がほとばしるかのような想いを受ける。このような演奏を聴くと、粗さまで計算ずくの指揮のもと、ウィーン・フィルがそれに答えているように思えてくる。

例えば1楽章の9分ころから始まるクライマックス。激しさの中に、とてつもない運命の前への服従や諦めが見事に表現されており胸を打つ。しかも、激しさを持ちながらも、マゼールは冷静に、この曲の「情」に入り込みすぎないよう距離をおいた解釈をしていると思わる。それが逆にこの交響曲の持つ性格を見事に抽出している。1楽章の最後に見せるコーダはテーマは光に包まれた、微笑みさえ感じ2楽章へのつながりを感じさせる。

��楽章のワルツは、非常に流麗な演奏で、5/4拍子という不安定な拍子が表す揺れる不安な心がうまく伝わってくる。規則的にたたかれるティンパニは迫り来る運命の鼓動だろうか、さらりと早いものの、テンポの揺らしなども結構あり、新たな発見に満ちた演奏である。

��楽章は良く聴いてみると、行進曲風の力強いテーマの裏に、チャイコフスキー好みの繊細な動きが見え隠れし、ざわめきとして聴こえてくる。何か走馬灯のように今までの過去を振り返りながらの凱歌に聴こえてくる。華やかなこの楽章からして、過去を鎮魂するレクイエムなのかと思わせる。

��楽章は切り込むような鋭さで開始されるものの、感情過多にはなっていない。その解釈が普遍的な、悲しみの深さや諦念を見事に表現しきっていると言えようか。途中のクライマックスの悲劇的な部分も見事であり、激しくも静かな美しさに満ちている。

概して、マゼールの演奏は「情」の音楽であるチャイコフスキーの交響曲に対して、知的にして清冽なアプローチを試みた演奏であると思わせる。私は悲愴交響曲をチャイコフスキーという実像抜きに聴くことは出来ないと考えているが、マゼールはある意味、そういうものから脱皮し美しき普遍性へと昇華させた音楽を目指したと思えるのであった。マゼール盤は、純粋なチャイコフスキー党からは、好まれないタイプの演奏かもしれない。しかし、私はマゼール盤を聴かなければおそらく、チャイコフスキーの交響曲の真髄の一端に触れることはできなかったと断言できる。でも、色々なサイトで「悲愴」の名盤を読んだが、マゼール盤を推している人は・・・少ないなあ・・・

��実際マゼールが何を目指したのかは、解説には一言も書かれていないので、分からないのだが・・・、ぜーんぜん的外れかも知れないよ。)