2001年3月16日金曜日

柳美里:家族シネマ

「家族シネマ」は1997年の第116回芥川賞受賞作である。家族というものの虚構と実像を書いたとか、
おそらくその手の書評は、数多く書かれているのだと思う。

 私は柳の小説を「命」「魂」しか読んだことがなく、この代表作の内容に関する事前知識もほとんどない状況でこの小説に接した。私はこの小説からは、彼女が書いた「家族の虚構」というものよりも「柳
美里」の等身大が浮き出てくるようで、切実なる思いを感じながらページを繰った。

 三つの短編、中篇が納められた文庫だが、自らの体にみみずばれに似た傷を付けるかのような自傷行為、あるいは鈍い刃物で皮膚を切り裂き、そこに生々しい肉の色が見えているような、そんな小説である。小説として語られる文体や言葉が、ぎりぎりの線で軋むかのような音を立てており、付け入る隙や、わけ知り顔で評論するような輩を冷たい視線で追い返すかのような凄みがある。

とにかく文章がすごい。解説は鈴木光司が書いているが、小説家は解説も的確だ、引用しよう。

柳美里さんが描写する風景は不思議だ。ガラス細工のように刺々しく、触れれば肌には傷が走って血が滲み出そうなほど、まさにいきりたっているように感じられる。

そう、彼女の書く風景に限らず、いろいろなものが、落ち着きおさまるところがないまま、浮遊し傷を負っている。「家族シネマ」の中で、「母はいつも百円ライターを握りしめ崖っ縁で生きている」という記述があるが、まさに主人公たちにもあてはまるかのような言葉だ。傷ついた過去や他人に絶対に理解されないような何かを持ったものたちが、現実と折り合いが付けにくく、なんとか生きあがくそのさまは、読んでいて痛々しい。

家族の虚構や再生ということで感じたことは、真摯に生きる姿を演じている自分を、自らの目では確認できず、他人からの視線(あるいはカメラ)を通してのみ現実として理解できるかのような、現代に生きるものたちのリアリティの喪失なのだが、これは多分この小説のテーマではないだろう。

文庫裏表紙に家族が価値あるものかを現代に問う名作とあるが、私にはそんな問題提起をこの小説からは感じない。そもそも、この小説で語られる家族は最初から壊れたものとして存在している。そして誰も再生させようなんて考えていない。この家族を見ていると、「家族の幸せ」なんて幻想でしかない、と暗澹たる気持ちになる。壊れた家族を持った、ある種の喪失をもったものたちの生きるさまが、柳独特の文体で迫ってくるのみだ。ただ、柳の投影たる主人公たちだけは、どこかに辿り付きたく、なにかにすがり付こうとしているかのようだ。単純な幸せ探しではない、でも、ある意味では彼女自身の再生への願いを込めた自傷行為とも言える小説であるように思えてくる。