2001年3月18日日曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 ゲルギエフ指揮 キーロフ歌劇場管弦楽団による交響曲第6番

交響曲第6番 ロ短調 作品76 「悲愴」
指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
演奏:サンクトペテルブルク・キーロフ歌劇場管弦楽団
録音:July 1997
PHILPS PHCP-11174(国内版)

はっきり言って、私はゲルギエフが好きである。どこが好きかというのを事細かにアナリーゼする能力は残念ながら持ち合わせていないので、凝りもせず根拠レスで感情的な感想を書いてしまうことを承知で読んでもらいたい。

 この悲愴からは、体の奥底から震えとともに湧き出してくるような、深く野太い慟哭を感じずにはいられない。重心は極めて低い。堂々とゆったりとしたテンポ設定は、荘厳な雰囲気で曲を支配している。ゲルギエフの持つ圧倒的エネルギーは、陰性の爆発を待つかのような凄みと緊張感がある。解説に「大地の底から湧き上がる重低音、炸裂する金管群が描き出す’人生の縮図’」とあるが、これは決してオーバーではない。

低弦の弦楽器の音は分厚く、肌を粗いタワシで逆さになでるかのような、ざわついた皮膚感覚を感じ、それが不安感や諦めの感情を良く表現している。フォルテに至ったときの、堰を切ったかのような響きは表現する言葉を失わしめる。トロンボーン荒々しくも強烈な咆哮、ティンパニの怒涛のロール、閃光が炸裂し一瞬目の前に無数の火花が散ったかのようなシンバルの響き。とにかく圧倒的である。激しさは鬼神か突風のごとくであり、雷鳴を伴い天地が裂けんばかりの迫力である。迫りくる暗雲の禍々しさと全てを飲み込む圧倒的な力に翻弄されるのみだ。(第一楽章の印象)

ゲルギエフの表現した運命はなんと強大なことか、あたかも、孤高の高みから人間たちを屈服させるごとき神の声だ。展開部の後に続く再現部は諭すかのような雰囲気を感じる。チャイコフスキーはそこに神の光をみたのだろうか。第一楽章最後のコーダは、この曲の中で神聖なる至福を感じる部分で、涙なしでは聴けない。

第二楽章は、ゲルギエフの盤で聴くと非常にパワフルだが、反面はかなさや優雅さは感じない。中間で現れるティンパニをバックとした第二主題の不安な翳さえも実像を伴うかのごとく擬人化されている、ちょっとやり過ぎという気もする。でも許す、ゲルギエフだもの。

第三楽章は戦闘的な楽章、完璧な戦闘配置と前線への行軍、重戦車と地対空砲撃弾を準備し、合図を待つ兵士たち、高まる緊張、上空を飛ぶ戦闘機の爆音、そして戦闘への火蓋は切られ・・・・最後は木っ端微塵に敵を蹴散らしての圧倒的勝利だ、赤き旗印のもと凱旋行軍が続く。なんだ、なんだ、これは戦争交響曲か? でも、これでもいいよ、ゲルギエフだもの(^^;;;

やはり、この曲の真価は第四楽章だ。この楽章は、彼の演奏からは以下のようなイメージが浮かんだ。

 降りしきる冷たい雨、霙まじりになるになるかのような重く垂れこめた空
 過去を振り返っても残るは深い悲しみと後悔
 あたかも自らの葬送行進をゆっくり歩むがごとし
 自らの魂を深き地中に封印する
 せめても哀愁を帯びた美しき唄をうたえよ
 雨は降り止まないが、魂は昇華してゆく
 運命を受け入れすべてを諦めよう
 深き嘆きも、もうむなしい、嘆くことさえむなしいのだ
 かつて心を動かしたものたちも、永遠に我とともに眠れ

 雨は霙から雪に変わった、棺の上には雪が積もってゆくだろう
 風が舞い雪を散らす、生きるものを眠らせる北から吹く冷たい風だ
 雪よ、全てを埋め尽くせ
 風よ、我の残滓すべてを撒き散らせ

 永遠に静かに眠るであろう、激しくも栄華と憔悴に満ちた人生への鎮魂歌たれ

こういうイメージを、ゲルギエフの演奏だから感じたのか、あるいは何度もこの曲を聴くことにより自分の中でイメージが膨らんだからかなのかは分からない。でも、彼の演奏はなぜか非常にイメージ豊かなんだと思う。私の語る言葉はへたくそでちっともイメージ豊ではないのが悲しい。