2001年5月15日火曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第2番

指揮:パーヴォ・ベルグルンド
演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団
録音:Oct 1997
FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)

オーケストラの音色はオーボエの音で決まるという人がいる。その人は、有名どころのオケであればオーボエの音だけでどこのオケであるのか言い当てられるという。さて、このヨーロッパ室内管の音も、出だしのオーボエの音が非常に特徴的といえるかもしれない。端的に言ってしまえば、ある種の明るさと軽妙さが感じられるのだ。また演奏の歯切れがよく、そして音がきらめいているようだ。全体にフットワークも軽く、さらさらと流れるように音楽が動いてゆくのを感じることができる。この演奏に初めて接したときハッとする何かを冒頭から感じさせてくれることは特筆に価すると思う。

軽妙と書いたが「軽い演奏」ではない。むしろ全く逆であり、終楽章を聴き終わったあとには、ため息しか漏らすことができなかった。音楽が心の深いところから満ちてきあふれてしまうのを留めることができないのである。いやはや凄い演奏だと全面的に降参である。

音のきらめきは第一楽章の出だしからして顕著である。第一主題が奏でられた後の弦セクションの透明にして艶やかな響きや、その裏での木管の複雑な伴奏など、陶然とさせられてしまう。それにピチカートの響きの繊細なこと。第一主題と第二主題が混じり合う部分においてさえ、見通しのよさがあり、それに引き続く複雑な音形からの盛り上がりも非常に正確に聴こえる。中間部、ファゴットにより第二主題が再現すると雰囲気が一変するが、あたかも回りの空気の色さえ変えてしまうかのようだ。

ここまで聴いてきて、流れるような演奏の中から、見事な音の牙城が築き上げられてゆく様を感じることができる。先のデイヴィス盤と比較してしまうと、むしろデイヴィスの方が情景描写的と思えてくる。この演奏からは、大いなる風景を前にしたような感動というよりも、内から満ち足りてきて大いなる情動と、その後に祝福と光を受けたかのような深い満足感を覚えるのである。

第二楽章のピチカートは一楽章とは雰囲気を一転させ、内面に深く降りてゆくステップのように思える。その深く降りていった先に(あるいは深い洞窟をもぐっていった先に)見えるのは、オーボエのほの暗いテーマである。それは光なのだろうかあるいは陰なのだろうか。見知らぬ場所で、ふと死の陰をまとった老人に出会ったかのようである。

この楽章は、聴けば聴くほどに幻想的であり、まるでひとつの交響詩のようにさえ感じられる。賢者のようなものから啓示を受けてひれ伏すような場面(トランペット)や、慰めのテーマなど(トランペットとフルート)。ラストの木管のトリルは確かに哄笑か悪魔的な響きにさえ聴こえるではないか。しかも、この楽章を聴くと、テーマの裏の伴奏て木管などが非常に複雑な動きをしていることにも気づかされる。オーケストレーションに独特の深みを与えているようだ。

第三楽章はさらにオーケストラは色彩豊かになってゆく。何度か挿入されるゲネラル・パウゼをはさんで、緊張と弛緩を繰り返しながら、わしづかみにされるようにしてひとつの頂点(第四楽章)に連れて行かれるさまは圧巻である。四楽章の第一主題は、山の頂から大地を望むような壮大さとも雄大さとも呼べるような感興を呼び起こす。何かひとつ抜け出たという印象を与えるところが、この交響曲の標題性を喚起させるのかもしれない。

第二主題が再現される後半で、三拍子の裏でティンパニが鳴らされる部分がある。哀愁を帯びたテーマが綿々と奏される部分だが、この部位、デイビスはティンパニを十分に響かせ効果的に感情を高めているのだが、ベルグルンドはむしろティンパニを目立たせない演奏をしている。感情を抑えた演奏のように感じたのだが、しかし、どうしたことなのだろう、コーダに至ったときに、いつの間にか臨界点に達していたかのように大いなる感動を覚え、打ちのめされてしまっている自分に気づくのだ。

ところでラストの圧倒的な高揚感は、いったい何に対する勝利だったのだろう。こうして聴いてみると、Johansenさんが自分のHPで述べられているように(曲の解説を参照)、民族的な勝利とは別の要素を感じずにはいられないのだ。1楽章の叙情性や明るい世界と、2楽章のひたすら内面世界に沈み込むような世界、このふたつの曲のありようを考えると、3楽章から4楽章への移行を単純に民族的高揚には結び付けにくいという印象を受ける。シベリウス自身の非常に内面的な葛藤と克服(Johansenさんは宗教的エネルギーとまで言う)という見方の方が、的を得ていると思うのである。我々はシベリウス鑑賞に当たって、あまりにも「フィンランディア」に拘泥されすぎてはいまいかと自省するのであった。

CD評とも曲の解説とも付かないような駄文を、またしても書いてしまったが、まあ、シベリウス的ということの解釈はさておき、つまりは最初に書いたように、もはやため息か涙しか漏らすことができない演奏であると言いたいだけなのである。どこがどうとか、うまく説明はできない、しかし、なんだか「格が違う」と思ってしまうのであった。え?これも「先入観」だって? そうかも知れないけれどね。ま、いいじゃない。