2001年8月17日金曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 バルビローリ指揮 ハレ管による交響曲第5番




指揮:バルビローリ 演奏:ハレ管弦楽団 録音:Dec 1952 The Barbirolli Society, CDSJP 1018(輸入版)
シベリウスの5番を聴くときに、その中に何を見出し何を聴き取ることができるだろう。まずは、シベリウス自身がこの交響曲の着想を得えたときの言葉が、曲のもつイメージを端的に言い表しているように思えるので以下に引用してみたい。
「深い谷間にいる。おぼろげながら登る山が見え始めてきた。するとその瞬間、神がその扉を開いて、神のオーケストラが演奏する…」(「北欧の巨匠」音楽之友社 より)
いかがであろうか、曲を知っている人ならば成る程とうなづくのではなかろうか。シベリウスが「神」をどのように認識していたかは分からない。彼の曲からは(他の交響曲であっても)大いなる自然に対する畏敬とも畏怖ともとれるような感情を抱くことがある。シベリウスはキリストのような「神」ではなく、もっと包括的な壮大なる存在と捉えていたのではないかと思う。5番交響曲を聴いた後に残る全身に満たされた喜びや至福の感情は、偉大なる存在を身近に感じたときに得られる満足感なのだろうか。
もう一つこの交響曲のインスピレーションの源泉として語られる体験がある。すなわち白鳥がシベリウスの頭上を旋回し陽光の照る靄の中を、銀のリボンのように消えていったというものだ。彼は「生涯で最も大きな感銘の一つ」と記しているが、この経験そのものを音楽から感じ取ることは難しい。しかし、3楽章が終了した後の感興がシベリウス自身の感じた感動に近いものだとするならば、何と素晴らしい体験だったのだろうと思わずにはいられない。
このように極めて音楽的純度の高い交響曲を聴くに当たって、これから紹介しようとしているバルビローリ&ハレの演奏が他を圧しての名演奏であるかは議論が分かれると思う。ライナーノーツによると、バルビローリは交響曲第5番を57年(本演奏)、66年、68年と三度録音している。彼のほかの演奏を聴いていないため客観性を著しく欠くとは思うものの、私はこの演奏から多くの豊なイメージを感じ取ることができた。
このコンビの演奏の特質としては、熱い演奏ではないが迫力は十分である。録音が古いせいでffの部分音が割れているのが残念だが、オケの勢いなども不足なく伝わってくる。全体的にリズムの歯切れが良く、また音の重心の高さは涼しさや莉莉とした整然さを感じさせる。ロマンティシズムに流れそうになる部分においても、一歩手前で踏みとどまっているようにも思え、好感がもてる。といって、感情の入り方が少ないわけではない。むしろこの曲に対する深い愛情に裏打ちされた演奏のように思える。
例えば3楽章のラストへ向けての盛り上げ方には繊細さと美しさの中から、音の大伽藍が築き上げられる様であり圧巻である。音響の悪さを差し引いても十分に堪能することができるのではなかろうか。録音が悪いといってもそれはff部分であり、各セクションの動きなどは比較的良く聴き取ることがでるためクレバーな印象を受ける。そのようなところが、色彩豊かに聴こえる要因なのかもしれない。
以上のように書くと上出来の演奏のように読めてしまうが、先にも書いたように、これがシベリウスのあるいはバルビローリの名演奏であるかは分からない。それよりも、演奏される曲が素晴らしいのだと思う。何度も繰り返し聴くたびに色々なものが見えてきたり感じられてきたりする曲であると思う。
��楽章の壮大なるラストに酔うも、2楽章の思索的な散歩をするかのごとき逍遥を楽しむのもよし、また鐘か打ち寄せる波のうねりのような音楽に身をゆだねるのもよしである。言葉には換言できない音楽的体験を得ることができる。
最後にふと気づいたのだが、1楽章の勇壮な主題に入る以前の部分、弦のトレモロの伴奏が不安気な感じを抱かせる部分がある。4番交響曲のようなとりとめのなさや、つかみ所のない動きをしているものの、前作との決定的な違いは、その先に解決や頂点がある点だ。この時期のシベリウスの精神的な充実度を示しているように思えるのだが、いかがだろうか。

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