2001年10月12日金曜日

柳美里:生


柳美里と東由多加の壮絶なる闘病記の三作目だ。久しぶりに入る書店の店頭に、この第三作目が山と詰まれているのを目にしたときに、私は目を見張り驚いてしまった。また書いたのかと、前ニ作でもまだ書き足りていないのか、東由多加を何度死なせると気が済むのかと。

話しの内容が重く決して愉快ではないことなど百も承知だ(そもそも彼女の小説は皆暗く重い)。しかし、その表紙を見た瞬間から、私は店頭で一ページも繰ることなく書店のカウンターに本を運んでしまう。もはや読まないでいることができない吸引力だ。

「命」「魂」も壮絶であった。なぜこのような自らの傷口を押し広げるような、それも赤い肉と鮮血がほとばしるような傷を書き続けるのかと疑問に思いながら読み進んだものだ。今回もその思いは消えない。

柳は喪失感と疲労の限界の発狂寸前の状態の中で末期癌の柳を看病し、生まれたばかりの丈陽をいとおしみ、そして書くという行為を止められないでいる。書くことが彼女の生活の糧=収入源である、という現実もあるのだろうが、あのような状況でも書きつづけなくてはならないということは、彼女にとって書くことが生きることそのものなのかも知れないと思わせる。あるいは、「書くこと」を柳に運命付けたのが他ならぬ東であったから、だからこそ書きつづけずにはいられないのか。彼女の書くという行為に打算は読み取れない。そこにある、純粋で偽りのない感情の奔流に読むものは打ちのめされる。そういう意味では、彼女くらい強いひとはいないと感じる。「強い」ということをおそらく柳は全否定するだろうが。

今回は国立がんセンターから昭和大学付属豊洲病院に移っての闘病生活の1ヶ月の物語だ。柳の息子の丈陽に絵本を残したいという東の強い思いと生への執着、東を犠牲的な労力で支える柳、大塚、北村の三人の女性、それを取り巻く人々が描かれる。前ニ作より当然死期に近いため、東からは以前のような傲慢なまでの生へのエネルギーは消えている。残るのは想いと薄くなりつつある希望だ。だから、前二作以上に闘病生活は壮絶なものとなる。癌で苦しいとかいう壮絶さではなく、生きることの重さを問うている。

小説の中では柳と東の昔の関係や想い出が、限界に近い疲労の中で現れる夢のように挿話されてゆく。読者である私は、どうしてここまでに柳が東に献身的であるのか、アタマで理解しながらも現実感を持って受け入れることができないことに気付いてしまう。

この小説においてはストーリーなどはあまり大きな問題ではないかもしれない。読んで涙して感動するというたぐいの小説ではもはやない。重いテーマを突きつけられながらも、生きること、生きることの、本当の幸せというものを、ふと考えてしまう。

水をごくごくと飲めること、食事が食べられること、毎日トイレに行き排泄できること、自分の部屋で眠れること、人をいとおしく思うこと、愛すること、相手をいたわること、両親がいること、子供が健やかであること、そういう普通のことが、ただの普通の生活が送れることがどんなに、どんなにかけがいのないことなのか、それを今の私には実感できない。

また、小説に書かれた事実以上に、柳の生き様を考えてしまう。

 彼女は東と自分と丈陽の物語を三部作の形で書いたが、彼女の中で柳は集結してはいない。息子の丈陽を東の生き写しと思っているのかは分からない。おそらく彼女に生まれたばかりの丈陽がいなければ、彼女は東の死とともに自らの命も絶っていたかもしれない。

いまは丈陽と生きることを選んだ。これからも大きな重荷と深い傷を負いながら、そして決して消えない、また、絶対に他人など理解できないような底知れぬ喪失感と哀しみを胸に秘めながら、彼女はこれからも書くことを止められないのだろう。

彼女の暗さの裏返しとして彼女の小説から勇気をもらうのではない。書かずにはいられない、東を看護せずには生きていけなかった、かなしいまでの純粋さともろさと、本人が否定するだろう凄まじいまでの強靭さに我々は目を見張り、心の深いところが打ち震えるのだ。

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