2002年8月16日金曜日

シドヴィル 忠実な羊飼い IL PASTOR FIDO

この曲は、かつてはヴィヴァルディの作とされていた。私の持っているベーレンライター版の楽譜でもヴィヴァルディの名前が表紙に書かれている。楽譜の解説は1955年、Dr.Walter Upmeyer とある。それによると《忠実な羊飼い》は、ヴィヴァルディの名前を冠しながらも長い間省みられなかったらしい。その理由を、この曲が楽譜タイトルにあるように、特殊な楽器 ( musette や viele ) のためとされていたことや、customary catalogues から作品13が失われていためと指摘している。だからといって、ヴィヴァルディの作であると疑うことは賢明でなはいと続け、曲は期待にそむくものではないと締めている。(musette:手風琴、バグパイプのような楽器)




ランパルがこのCDを録音したのはまだ1968年、ヴィヴァルディの作であると疑われていない頃だ。

最初にそれを疑ったのはPeter Ryomで、1974年のことであった。1737年版楽譜に書き添えられた文章から疑いを持ったらしい。最終的に1989年になって、Philippe Lescatが、ヴィヴァルディ作とされていた《忠実な羊飼い》が、フランスの作曲家ニコラ・シェドヴィルの作で、1737年にパリで出版したソナタ集であることを突き止めた。ヴィヴァルディの作ではないとする出版者本人の文書を、パリの The National Archives で見つけたのだ。

当事はヴィヴァルディは流行作家であったそうなので、ヴィヴァルディの名前を借りて楽譜を出版した方が知名度も高く、よく売れると判断したたのだろう。右は1737年版の楽譜表紙であるが、しっかりとヴィヴァルディの名前が記されている。(解説、写真ともPHILIPS グラフェナウアーのCDより)

「忠実な羊飼い」に含まれる各楽章にはヴィヴァルディの協奏曲(op4-6、4-7、6-2や7-2)のほか、J.メックのヴァイオリン協奏曲(RV Anh.65)やG.M.アルベルティのヴァイオリン協奏曲からの引用が含まれている。標題には「ミュゼットまたはヴィエール、フルート、オーボエ、ヴァイオリン、および通奏低音のためのソナタ」とあり、どの楽器でも演奏可能なように書かれているとのことだが、今ではフルート演奏が一般的なのではないかと思う。

全部で6曲からなるこのソナタは、ヴィヴァルディの作ではないとは言っても優雅さと素朴さ、そして推進力に富んだ名曲であると個人的には思っている。そして、どの曲にも楽天的な明るさを感じる。当事のパリはバグパイプやミュゼットといわれる楽器が流行していたらしく、この曲にも表現されているような田園情緒が好まれていたのだろう。作品背景に思いを巡らせたり、あるいは何となく浮かないときについ取り出して聴くのには最適な一枚である。



フルート曲ということなので、私の手元にはベーレンライター版の楽譜がある。いつかは全曲きちんと吹けるようになりたいと思う曲だ。




フルート:ジャン=ピエール・ランパル
Jean-Pierre Rampal
チェンバロ:ロベール・ヴェイロン=ラクロワ
録音:1968年
ERATO WPCS-4611/2(国内版)

このCDを何度聴いたことだろう。フルートを始めて間もない頃この演奏に接し、曲の魅力とランパルのフルートに魅了されたものだ。少しでも吹いてみたいと思い、楽譜を買い、第1番ハ長調や第6番ト短調などに挑戦してみるも、技術力なさにあえなく敗退(><) 以降は聴く事に専念している。

単純な音型に付けられる装飾音符の美しさや品のよさときたら、フリフリのレースのような趣さえあり聴き惚れてしまう、まさに黄金の響きと言えようか。一方で速いパッセージの流麗さには舌を巻く。ランパル特有の軽やかさと明るい響きに心ゆくまで浸ることができる演奏だと思う。田園風の曲調というよりも、もっときらびやかで高雅な雰囲気の漂う演奏だ。





フルート:グラフェナウアー
Irena Grafenauer
harpsichord&organ:Brigitte Engelhard
Philharmonisches Duo Berlin
録音:1990年
PHILIPS 432 138-2(輸入版)

グラフェナウアーのフルートは、実のところこれしか聴いたことがない。初めて聴いたときは、ランパルの華麗な演奏に馴染んだいたため、骨太でしっかりとした演奏で男っぽい演奏だと思ったものだ。どこが骨太に聴こえるのかと考えたが、フレーズの切り方の短さ、音のメリハリのためなのかしらと思うがよく分からない。また、ランパル版よりも、ずっと「田園風景」の雰囲気を感じることができるように思える。

一方で彼女の演奏を続けて聴いていると、どこからかチャーミングさも滲み出してくるようにも思える。いたずら好きな女の子が、楽しそうに戯れているような趣もある。伴奏もランパル版はチェンバロだけだが、こちらはオルガンや弦楽なども用いられていて、通して聴くと、ともすると飽きてしまうことから救っている。グラフェナウアーもフルートやピッコロを持ち替えて演奏しており、これも楽しめる。


2002年8月15日木曜日

テレマン 無伴奏フルートのための12の幻想曲

テレマン(1681-1767)という作曲家はJ.S.バッハと同時代に活躍し、数多くの作品を残している。当事の人気としてはバッハを遥かに凌ぐものであったということである。この作品は通奏低音を伴わないフルートの独奏曲。楽譜には鉛筆でテレマンの名と「ヴァイオリンのための通奏低音を伴わないファンタジー」と記されているらしい。しかし、音域や書法からトラベルソ(1キーのフルート)のための曲というのが一般的である。

曲は全部で12曲からなる。音楽愛好家または器楽学生のために書かれたもので技巧的には難しくないと解説には書かれている。手元に楽譜があるので、時々思い出したようにさわりだけ吹いてみるのだが、とてもではないが私レベルのモノが吹きとおせるような曲では全くない。作曲当事はベーム式フルートではなくトラベルソであったことを考えると、当事のアマチュア楽器奏者のレベルの高さを垣間見る思いがする。

フルート独奏曲というと、バッハの無伴奏パルティータが思い出されるが、テレマンのこの曲は、バッハほどしかめつらしくはなく、どこか自由な軽やかさがある。「幻想曲」という形式にも、そのような性質が現れているように思える。

1曲が2分から5分弱と非常に短い曲であるが、通して聴いてみるとバロックやロココの雰囲気に浸ることができる。ひとりで暗い教会の中に座り、ガラスモザイクごしの光を眺めているような気にさせてくれる。それでいて、バッハのように内面的で宗教臭くならないところが、テレマンの良さだと思う。(逆にそれが限界であり、テレマンの音楽を深みがないと評する専門家もいるようだ)

私はそういうテレマンのこの曲が、それゆえにこそ好きである。楽譜を追いながら聴いていても、単調な音の並びからどうしてこんなにも豊にして心地よい音楽が響くのかと驚きを感じ得ない。アルペジオと音の跳躍だけで出来ているような曲も多く、まるで練習曲を見ているような気になる。

しばらく聴いていると楽譜を追うことをやめてしまう。小細工はいらない、ゆったりと羽根を伸ばすかのような気持ちで音楽に漬かるのが良いように思える。どの曲も良い、いつかはキチンと吹けるようになりたいなあ、と思うのであった。





フルート:ジャン=ピエール・ランパル
Jean-Pierre Rampal
録音:1972年10月30日 埼玉会館大ホール
DENON COCO-70461(CREST1000)~COCO-85024の再発売品

この演奏はランパル50歳のときの演奏である。彼は数知れぬ録音を残しているが、テレマンの無伴奏全曲は、埼玉会館ホールで録音したこのライブ録音だけであるということには意外な念にとらわれる。

現代の古楽器に慣れた耳でバロックを聴くと、ちょっと高いピッチときらびやかな音色に違和感を感じないわけではない。しかし、数分もすると、ランパルの音色や演奏は、決して嫌味のあるようなものではなく極めて素晴らしい演奏であるとことに気付かされる。誰が何と言っても、ランパルだ。今更、彼の演奏についてあれこれと言うべきものでもない。

DENONのCREST1000というシリーズで再発売されているこの演奏が1000円で手に入るのだから、幸せな時代である。

2002年8月6日火曜日

個人データとプライバシー

住基ネットとデータベースということについて、考えがバラけてきたのでページを改めた。

住基ネットには本人確認情報(氏名、生年月日、性別、住所、新たに全国民にふられる11桁の住民票コード及びそれらの変更情報)しか載せないと政府は説明してる。しかし、リレーショナルデータベースを構築してしまえば、ひとつのコードに情報を付与するのは容易なことであろうし、様々なコードを関係づけることも難しくはないだろう。システム的には、各行政機関や施設が固有の情報とコードを持ち、それをキーとなる個人コードと結びつけるという管理も可能だろう。

このようにさまざまな個人情報が電子的に結び付くことで利用しやすくなることは、IT技術を前提にすると当然の帰結かもしれない。為政者=管理者であれば多くの情報を芋蔓式に引き出せるシステムへの誘惑は避けがたいものがあると思う。「限定された事務処理」ではなく「広範なさまざまな処理」に使うことを、期待していると想像することはごく自然だろう。

しかし、全てに効率を求めることが前提という発想には陥穽もあるように思える。特に「国家が国民を管理する」ということについて、よく考えなくてはならないと思うのだ。我々国民は、個人の履歴情報=プライバシーをどこかに保管し外在化させた存在であることは望んでいない。

我々は個人情報を行政にサービスしていただいている、情報のユーザーでもないのだ。なぜなら個人情報は全て本人に帰するものだ。住基ネット=個人情報が必要なのは行政である。行政サービスを効率的に行うために個人情報が必要なのだ。前回も書いたが、行政がそんなに広範囲に、個人を特定する作業を行わなくてはならない、ということが理解できていないのだが・・・いったい、どういう情報が行政で流れているのかと、いらぬ不安を抱かぬわけでもない。

逆にいうと、個人情報を個人がどこまで管理できているのかということも問題になってくる。ある人には住所さえ重要なプライバシーだろう。一方で知りたくてもアクセス不能な個人情報というものも存在する。つまりは、プライバシーとは何かという問題にも行きつくので根が深い。

2002年8月5日月曜日

住民基本台帳ネットワーク稼動開始

「国民に十分な説明のないまま」住基ネットが本日から稼動を開始した。東京都 杉並区、国立市、神奈川県 横浜市、福島県 矢祭町などいくつかの行政単位は、個人情報保護に関する整備が不充分であることから住基ネットに不参加という立場を崩していない。
 
「国民総背番制」などという呼称でマスコミは懸念を示してているが、わたしはIT化社会において個人がコードで識別されることは、ごく当然の成り行きだろうと考ている。「国家が国民を管理する」ということに関する議論がまず重要であるとは思うが、議論の前提が私には整っていないし、諸外国の事例もよく分かってはいない。住基ネットに関しては総論では賛成ということになる。
 
だからと言って、現段階で諸手を上げて住基ネットに賛同しているわけでもない。以下の点を具体的に説明してもらった上で判断したいというのが本音だ。
  • 現在できることはどこまでなのか(10省庁・93事務)
  • 現段階での用途外利用の範囲は具体的にはどういうことか。
  • 利用範囲を拡大させることに関する手続きはどうなのか(264事務への拡大を含む)
  • 住基ネットを含め、政府が管理する個人データの将来像について(戸籍、年金、納税、健康保険、国勢調査レベル
  • の情報から公共施設利用状況などの情報などを含め)
  • 今回のシステム稼動に関する行政側のコストパフォーマンス(今までのコストとの比較、既にかかった投資額、今後のメンテナンス費用を含め)。行政機関は合理化されたのか(人件費、書類保管などに関わる経費を含め)
  • 今回のシステム稼動に関する住民側のコストパフォーマンス(時間およびコストメリットに関する評価)
住基ネットそのものについて、あまりにも無知すぎるのだ。そもそも「行政が個人を確定させるための作業」が、そんなに膨大に行われているということさえ実感を伴って理解できないのだ。
 
セキュリティやファイアーウォールについては説明は不要だ。聞いても専門的なところは分からない。おそらくハッキングも行われるだろうし、内部漏洩も生じるだろう。それについて今から懸念を表明してもムダなことだ、そんなことは私にはどうでもよい。まず、想定している効果とシステムコンセプトのみ簡潔に説明してもらいたい。総務大臣が「大丈夫、みんな便利になるんだから、使えば分かるよ」と力説しても説得力はない。当事者による数値が示され、さらにその数値の妥当性を第三者が客観的に評価するようになってはじめて納得できる。
 
以上が明確であれば、住基ネットの発想には賛意を表わしたい。私の目に触れていないだけで、以上が説明されたものがどこかで公表されていたかしら? 私もヒマではない。毎日隅からスミまで新聞を読んでいるわけでも政府のHPをくまなく見ているわけでもないので、周知の事実なのかもしれないが。