2003年1月3日金曜日

ヒラリー・ハーン/ショタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番

ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 作品77



演奏:Oslo Philharmonic Orcestra
指揮:Marke Janowski
録音:February 20 & 22-23, 2002

ヒラリー・ハーンの新譜が発売された。メンデルスゾーンのコンチェルトとの同時カップリングがショスタコーヴィチのコンチェルト1番である。こういう組み合わせは、ベートーベンとバーンスタイン、あるいはブラームスとストラヴィンスキーといった具合にハーン(またはSONY)のいつものやり口だ。

メンデルスゾーンのコンチェルトはさておくにしても、まずはショスタコ-ヴィチである。この演奏は、ハーンの熱烈なファンであるジュネスさんによるベルリンフィルとの来日公演の丁寧なレビュを思い出す、彼女の得意な曲なのかもしれない。彼女がはじめてこの曲を演奏したのは17歳のときであるとのこと。

ヒラリーを評するとき、人は彼女の完璧なまでなテクニックと、その上に構築される音楽性を賞賛し、これが今年で24歳の若者の音楽であるかと感歎してやまない。MOSTLY CLASSICの音盤紹介でも黒田恭一氏が手放しで褒め称えている。

ショスタコのヴァイオリン協奏曲1番というのは、内容からして何ともひねりが加えられた皮肉な音楽だ。作曲されたのは1947~48年、当初オイストラフに捧げられたものであったが、当局の監視や弾圧が高まる中、初演はスターリンの死後まで待たなくてはならなかったというものだ。

第一楽章のノクターンは時代を象徴するような暗さから始まり、一方でスケルッツオやブルレスカにはショスタコーヴィチお得意のメロディの中に、諧謔性やアイロニーそしてい歪みなどを込めている音楽だ。非常に複雑な感情が吐露されており、まさにショスタコーヴィチの内面を表した音楽と言える。

おそるべき曲ではあるが、私はヴェンゲーロフとロストロポーヴィチ、ロンドン響による1枚しか所有していない(左)。この盤は、1994年の英グラモフォン誌においてレコード・オブ・ザ・イヤーを受賞した名盤である。当時ヴェンゲーロフは何と若干20歳である。

このCDを聴いて私は、その高まる感情に度肝を抜かれた覚えがある。こんなに凄まじき音楽を、いくらロストロポーヴィチが指揮しているとはいえ若干20歳そこそこの若者が演奏可能なのだろうかとたまげた。今回改めてこの盤を聴いてみたが相変わらずヴェンゲーロフの弦は、うなりをあげて聴くものに迫ってくる。音楽が躍動しいびつな感情に揺れ動く。

さて、そこでヒラリーである。彼女の演奏はBBSなどを読んでいると「氷上の音楽」と評する人がいる。どのような意図から「氷」という言葉を用いているのかはわからない。しかし、SONYのCDジャケットは、前回のブラームスもそうであったが、ダークブルーの背景に蝋人形のような硬質なヒラリー像を配している。チョン・キョンファであったら決してこのようなデザインにはならないだろうと思う。

実際に音楽を聴いてみると、CDジャケットの印象がかなり音楽の性格を表しているのかもしれないと思う。もしかしたらSONYの固定観念に騙されているだけなのかもしれないが。

従ってというべきか先のヴェンゲーロフの盤と比べた場合、音響的な深や厚みのようなものはハーンの盤から感じることが少ない。誤解されては困るのだが、ハーンの音に厚みや深みがないといっているのではない。これは、オケを含めた全体としての表現力の違いだと理解してもらいたい。ロストロポーヴィチ率いるロンドン響のサウンドはやはり、オスロフィルとは一味もふた味もちがう。そこに油の乗ったヴェンゲーロフだ、重量感のあるなショスタコがこれでもかとばかりに展開されている。

一方でハーンの音楽だ。そういう盤と比較してしまうとオスロフィルには物足りなさを感じないわけではない。しかし、その上前を刎ねてしまうほどに彼女のヴァイオリンは冴えている。まさに彼女の独断場にしてしまったのがこのショスタコなような気がする。

ハーンは決して過度の感情を表出しはしないが、縦横にあるいは重層的に積み重ねる音は、重ねるたびに逆に一点のにごりもなく響き渡る。絵の具を混ぜてゆくと灰色に濁ってゆくのに対し、光の色を重ねてゆくと限りなく白色になってゆく。まさに、ヒラリーの音は後者のような印象なのだ。それを現代的な表現ということもできるかもしれない。今まで聴いたこともないような音が聴こえてくる。彼女のそういう音から奏でられるショスタコからは、人間的な感情を越えた高みに上ってゆくかのような飛翔する感覚さえ感じてしまう。

この曲では第三楽章の後に、ほとんど独立したカデンツァが挿入されるが、ここでの彼女の音楽の深さはどうだろう。音色のせいばかりではない、ショスタコーヴィチがどんな感情を込めたのかは不勉強にして理解していない。それでもここからは音楽家の不安や嘆き憂い、そして時代に対する絶望ではなく、どこかへと馳せる思いを感じる。そして更には、ある種の静かな祈りさえ聴こえてくるようだ。

最終楽章のブルレスカ(乱痴気騒ぎ)にしても、ハーンのヴァイオリンの狂騒には乱れが全くない。波風一つ立たない水面の下で激しき水流が渦巻くがごときだ。畳み掛ける音色はただならぬ緊張感をはらんで疾走し駆け上がる。まさに氷上を滑るがごとく、あるいは磨き上げられた氷の表面と、その下の激しい水流の迸りを感じる。この楽章だけでも聴く価値があると言えるかもしれない。

こういうショスタコーヴィチを聴いてしまうと、噴出するがごとき激し表現は、わざとらしさとあざとささえ感じてしまうというのは皮肉なことかもしれない。新しい感覚のショスタコであると感じる。もしかしたら、ショスタコーヴィチのはぐらかすような心境には、こういう表現の方が近いかもしれない。そういう意味から、従来型のショスタコをお好みの方には今ひとつという印象かもしれない。もっとも、わたしとてそんなにショスタコに通じているわけではない、このへんでいい加減なことを書くのはやめようと思う。

同時収録のメンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲はこちら。


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