2003年5月24日土曜日

チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルのブルックナー4番


チェリビダッケ指揮
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
1988年5月25日 ミュンヘン・ガスタイクザール
EMI TOCE-11613
許光俊氏の影響というわけではないのだが、チェリのブル4を聴いてみた。許氏は「世界最高のクラシック」で「チェリビダッケは時々、度肝を抜くような特異な表現で聴衆を驚かせたものだが、この第四楽章の数分間はその典型である」と書いて、いかにこの演奏が「想像もできないような音楽」であるのか説明している(同書 P.188)

さて、どう「想像もできない音楽」なのかは、許氏の著述を読み、本CDに接して判断していただきたいが、私は今一つ乗りきれなかったというのが正直なところである。というか、そもそもブルックナーの作品の中にあって4番は、中途半端な感じがしてしまう。チェリならばと期待したのだが、やはりその想いは完全には拭いきれなかった。

いや、確かにチェリのこの演奏は美しく華麗だ、それも類稀なほどに。霧の中に薄日が刺すかのごときホルンの響き、ホールの底がぞわりと盛りあがるかのごとき恐るべきクレッシェンド(特にチューバの響きが尋常ではない)、全身をなでて過ぎ去る弦のざわめき。長い残響と、それに合わせたテンポの遅さ、そこから聴こえる驚くべき沈黙の間合い。スケルツォ楽章でなどでは、背筋がゾクゾクしてしまう。第4楽章の冒頭も凄いの一語に尽きる。幾重にも重なった芳醇なるオルガンのようなブルックナーサウンドの洪水、頭を垂ひれ伏してしまうかのような中間部の表現、ニ声になって聞こえてくるテーマの複雑な絡み合いの効果の見事さ、そして許氏も指摘するラストに向けての壮大なる息の長いクレッシェンド・・・などなど、演奏はものすごく完成度が高い。そこかしこで、「そうくるか」「ここでそういう表現をするか」と何度もはっとさせられる。ラストのコーダには思わず忘我の境地に入りそうになってしまう、いやはや凄まじい演奏だ。

え? それだけの演奏でありながら、何の不満があろうかと? 美しすぎることが不満なのか、完成度が高すぎることへの苛立ちなのか。何か足りないと思うこと、ブルックナーの4番にそれ求めることが間違いなのか。あるいは私の勘違いのなせる技なのか。ブルックナーはやっぱり7、8、9番なのかなあ・・・と思うのであった。ブル4を責めて、チェリは責めずというところか。(>ブルックナー責めてどうするんだよ)