2003年6月3日火曜日

サイトで書くということ あるいは呟き

高村薫氏の「半眼訥訥」という本を読んでいてはっとした。

自分の気分を言葉で表現することで、とりあえず意見らしい体裁が整うのだが、客観的な比較検討や分析を加えられていないその正体は、以前として気分であり、個人の呟きの披見に過ぎない。そのことを、彼らが当分意識することはないだろうと思うのは、この社会と時代が、彼らの呟きとまったく同じありようをしているからだ。
「呟きの時代」(P.115)

これは、最近の携帯メールや掲示板でのありようを指摘したものだ。

以前、作家の村上龍氏が、違う文脈においてマスコミや日本のサイトを「日本語というものに守られて、国際競争や批判にさらされることのない環境」と指摘していたことを、さらに思い出した。

私がこうして、音楽や本の感想を綴るということも、高村氏に言わせるならば「呟き」の範囲を越えるものではないと、今さらながらにして思う。感情の赴くままに、個人的な考えだからと無防備にして無邪気な文章をしたため続ける、その行為はいったい何なのかと自問するに、これは感想という体裁をとった長大なる日誌に過ぎないのだと気づく。

自分で自分を納得させるために書くのということか。HPをベースにして発展的な話題を求めているわけでもなく、あたかも食べたものを吐き出すかのごとく、個人にしか意味のない文章を綴り続けているだけだ。

私のサイトに限らないが、そういうサイトは多い。特に日記サイトは(それが日本だけのものなのかは分からないが)、信じられないほどの数だ。中には小さなコミュニティを形成している幸せなサイトもあるが、関係ないものから眺めると、原始的にして局地的な小集団にしか見えないし、多くはムーブメントをつくるまでには至らない。私もそうだが、大きな集団などは求めていないのだから余計なお世話と言えばそれまでである。

意見らしきものを書くサイトにおいてさえ、仲間内にしか通じない話題に特化した時点で、それは表現や意見や主張などではなく「呟き」以外の何物でもないと思い知らされる。「呟き」は個人を慰め、浄化しはするが「他人の分析や評価に耐えない、稚拙な呟き」(同書 P.116)にそれ以上の意味は、おそらくない。思うに電子空間とは畢竟、精神空間の巨大な掃き溜めのようなものか。