2003年7月12日土曜日

高村薫:わが手に拳銃を

これは「李歐」のもととなった小説である。「李歐」を先に読んだのだが、本作も興味深く読むことができた。登場する人物などはほとんど「李歐」と同じなのだが、やはり作品としては全く別物であった。登場人物の設定や末路が若干異なっているし、主人公の一彰やリ・オウに与えられた性格も微妙に異なっていることに気づく。こちらでの二人は、もっと直接的で外発的なように見える。

「李歐」のなかで一彰は、ひたすら李歐を焦がれて待ちつづける男として書かれていたが、ここでは、暴力団の原口にも惹かれながら、それでも心の底でリ・オウを渇望し、かつ、自分の中での狂気と戦っているかのような姿として書かれている。一方、そのリ・オウも天性の明るさと才能は十分に発揮しているが、妖しいまでの魅力にまでは昇華しておらず、どことなく汗臭くオレ様王国を夢見る若者という殻をひきずっているようにも思えた。

こんなことをいちいち比較していても、しかし意味のないことだ。作品はモロに高村ワールドであるし、文句なく面白い。

五十発の銃声がいつまでも耳から離れず、目を閉じると網膜に血の色の花が散る。それがまた、身の毛のよだつ美しさだった。
この美しさに札束の夢と蒼白の月。
このリ・オウの晴朗な狂気。男ひとり狂うのに、これ以上何が要るか、と一彰は思った。

という描写は本書のラストだが、こんなにも痛快な終わり方があるだろうか。さすればこれは、男と男が惚れ合い、惹かれ合った深い恩義と友情の話でもあるし、男と男の心からの約束の話しでもあるし、そして、男が組織や家族や国家などのしがらみを脱ぎ捨て「自由人」として翔び出す話でもある。

それ故にといおうか、あまり捩れたところや屈折したところはなく、感情も行動もストレートなため分かりやすい。「李歐」では何もかもがはっきりしなかった背景が、こちらでは詳細に解説されているので、「李歐」を先に読んだ私は、謎解きをされているような気分になったものだ。

どちらが作品としてお奨めできるかというモノでもなさそうだ。それぞれが別で、読後に感じる感慨も全く別のものだからだ。ただ、「李歐」の方が深く感動してしまったことは確かだ。作品としては実は「わが手に拳銃を」のタッチの方が私は好きなのだが。

「わが手に~」を上梓していながら高村氏が改めて「李歐」を書こうとした意図を考えると興味はつきない。やはり、彼女は李歐という存在そのものを書き尽くしたかったのだろうと思う。「李歐」が高村氏の小説にして始めて、女性による小説という雰囲気を醸し出しているわけも納得できるというものだ。