2003年7月17日木曜日

貫井徳朗:慟哭

本作は93年に発表され世間を驚かせた作品である。作品の内容や質、仕掛けられたトリック、そしてこれが貫井氏のデビュー作であり、かつ彼はまだ24歳程度であったということにミステリファンは驚いた。文庫本の高村氏の帯びが振るっている(上)。たった3行のキャッチに惹かれて私は本書を手に取った。私にとっての貫井作品を読むのははこれが始めて。

物語は、心に大きな傷と空洞をかかえ職も放棄してさ迷う松本という男と、警察内ではエリートコースを走る佐伯警視(キャリアで刑事部の捜査一課長)の二本立てで進んで行く。佐伯は妻の父親が警視庁長官というであるため、さまざまな妬みや中傷を浴びながらも、孤独に峻烈なまでな厳しさで自己と他者を律して行動する男として書かれている。私生活においては、家庭とは全く疎遠になり、妻とは別居状態、娘からは憎まれてさえいて、愛人宅から通うという生活だ。一方の松本は、絶えられない心の傷を癒すため、新興宗教に救いを求めて行く。そして両者の物語は連続幼女誘拐殺人という今時の事件を鍵として収斂して行く。

読みながら、ラストに佐伯の警察人生を変えるほどの「悲劇的」物語が仕組まれているのだろう、おそらくは佐伯の娘が誘拐され、そこに「慟哭」ともいうべきものが生じるのだろうとは想像できた。ラストまでグイグイと読ませる。文庫本解説でも、ネット上の多くのレビュでも、トリックの奇抜さ、殺人に至るまでの心理、まさに慟哭というべき悲しみ、ミステリを越えたテーマ性、そして独特の文体について絶賛している。私も最後のトリックにまでは思い至らなかったため、作者の陥穽にまんまとはまってしまったと言えなくもない。

でもなのである。ミステリの上手さは認めるものの、私はこの小説に心酔も承服もできない。読後の救いのなさと、希望のかけらもない虚無さに私は耐えられない。

一旦、小説の構築に合い入れないとなると、否定的な面ばかりが目に付く。例えば黒魔術だ。作者は小説を書くに当たって新興宗教をボーリングしたふしはあるものの、宗教に対する偏見を感じるし黒魔術が登場した時点でリアリティが飛んでしまった。娘を失うという深い喪失感のため宗教に救いを求めるということまでは是認したとしても、その後に、黒魔術を駆使して娘を蘇らせるなどという行為に走ることをどうして承服できよう。亡くした子供を蘇らせるという物語だと、ホラー小説だがS・キングの「ペット・セマタリー」を思い出すが、こちらもこれも全く救いのない小説で読後感はサイアクだった。

自分の子供を誘拐殺害された父親が、別の目的で連続誘拐殺人を行う、このことも認めがたい。子供をなくした親が、連続誘拐殺人犯ではありえないと言ったのは、はからずも佐伯の恋人であったはずだ。

妻とも不仲になり、愛人からも見放され、職場でも自らの厳しさゆえに孤立し、自分を唯一支えていると考えた娘(それは彼の一方的で勝手な思い入れなのだろうが)さえも、自ら陣頭指揮をしていた事件に巻き込まれ死なせてしまう。しかも、妻から娘が誘拐されたかもしれないというメッセージを無視し、捜査一課長としての体面を取り繕うために初動が遅れたという落ち度を犯すというオマケまで付けてだ。この時点で、彼は最後の砦である職場での立場さえ失い、まさに自分を支えるもの一切を喪失することになる。ここまでの悲劇に見まわれたならば、私ならばとてもではないが耐えられないだろう、もはや正気でいられるとは思えない。

よほど気がふれてしまった方が楽であったろうにと思う。彼の脳は現実から逃避するという方向には向わない。ただ救済されたいがために宗教へと、そして娘を蘇らせる目的での魔術と殺人に走る。悲しみの深さには同情できても、そこから筋に乗ることができない。自分も同じ立場になるとオカルトにでもすがるのであろうか。

もうひとつ、気になるのことがある。そこまで佐伯が娘を愛していたのならば、普段の家庭を無視した行動は何だったのかということだ。仕事に没頭し、夫であることと父親であることを放棄し、疲れた自分を癒すのは家庭でなく不倫相手。そういう彼が、実は子供だけは心から愛していると言うのは、彼にとっては本心なのではあろうが、娘や妻にとっては自己中心的な愛でしかなく不実以外の何物でもないように思えてしまうのだ。彼は事件の後、妻との関係を修復する方向にも、犯人をとことん追い尽くすという方向にもパワーを向けることができず、深い喪失感ゆえ捩れた考えを持つようになってしまう。あくまでも自分中心の考えのように思えてしまうのは、私だけだろうか。

これらの仕組みは、トリックがすべて明かされた読了後に始めて分かる事柄だ。従って、ミステリとして読むならば極めて秀逸であると思う。ただやはり、救いのなさにおいて読後感はサイアクで、私はこういう小説を好きになれない。