2004年2月2日月曜日

三島由紀夫:仮面の告白

読む本がなくなると、本屋に行って無駄な時間を費やしてくだらない本を買うくらいなら、昔読んだ本でも読もうという気になるものです。それで、今回は何の脈絡もありませんが、三島の代表作のひとつ「仮面の告白」を読んでみました。この作品が書かれたのは昭和24年(1949年)ですが、作品価値は全く色あせていないことに改めて驚かされます。




三島由紀夫の文壇デビュー作である「仮面の告白」を改めて読んでみたが、小説の内容と語り口の瑞々しさは今もって新鮮で驚くばかりだ。この小説を始めて読んだのは高校生くらいの頃であったろうか。三島といえばナルシシズムの極地の人であり、耽美的であり、背徳的であり、そして男色家であるという印象が強く、また「仮面の告白」は三島の半自伝的な小説であろうという面にばかり感心が向いていたように思う。しかしながら、実のところこの小説はそのようなことは余り重要ではないのだと思い至った。


読み進めるうちに、これは告白という自叙伝風の小説でありながら、その実、極めて精巧かつ作為的に作られた小説であることに気づいてしまう。主人公に「男色」というアブノーマルな性格を付与することで、自己認識や自己嫌悪を行う一人の個人の内面を、えぐいほど痛烈に描き出している。更には主人公の嫌になるほど理性的な自己分析の過程をさえ読むことになる。


彼が「仮面」と称したのは、男色であることを隠し一般の男性のように振舞ったことを指すのではなく、逆に男色を前面に出すことで、更にもう一度自分の真意を隠蔽したところにこそ仮面性が潜んでいるように思える。


どういうことかというと、主人公が強烈なる(肉体的にも精神的にも)コンプレクスとの裏腹に強烈なる自意識を持っているが故に、その自意識を隠蔽しなくてはならないからである。強烈なる自意識は決して敗北してはいけないのである。彼は確かに男性として不能であると認識し、苦い挫折感を味わいはするが、しかしながら自己愛と彼自身の男色傾向にすがることができるため徹底的な敗北はしないのだ。


主人公は誰よりも「日常生活」を怖れていたくせに、実は彼の深い内実はもしかすると「日常生活」を送ることを願っていたのかもしれない。それをかなえることができないと把握している主人公は、自分を幾重にも裏切ることで敗北を塗布しているかのような印象を受ける。彼が「初恋」とした近江への傾慕も、自分が男色家であるが故に女性を愛せないと結論付けた園子への愛情もしかりである。彼が戦争によって自分の意志とは無関係に死ぬことを漫然と望んでいたのも、人生への決定的な決着を自分では付けたくはなかったからであろうか。


そういう意味においては、確かに究極の自我であり究極のナルシシズムであり、さらに高度なる告白ということになるのであろうか。誠に世の三島論など読んだこともない私には、勝手な解釈であるが、どのようにも読める点、やはりタダモノではない小説である。