2004年6月12日土曜日

三菱自動車のガバナンス

今日はヒマなので、珈琲を淹れコレッリのヴァイオリン・ソナタを聴きながらネットなど読んでいたところ、「週間!木村剛」で『マスコミが指摘しないカネボウと三菱自動車の共通点は何か? [コラム]』というエントリーが目に付きました。木村氏はカネボウと三菱自動車の不祥事に対して、


じつは、ひとつ、マスコミが全く取り上げていない重大なポイントがある。

それは、監査役の責任論だ。


と書き、日本のコーポレートガバナンスが『表層的なのだ。学者の教科書の世界を抜け出せない』ものであると指摘しています。木村氏の別のサイトでも読んだことのある主張です(日経だったか?)。




まあ、そうなんですが、日本において監査役とは「経営者の経営が正しいことを、建前として証明する」御用聞きみたいになっていないでしょうかね。日本企業の「経営」やトップの「責任」というものは、本当に明確になっているのでしょうか。


経営者である社長が名実ともに会社の中でトップであり、すべからく情報がトップに届くようになっているのかは疑問です。大方は、影の実力者である次席クラスやトップ取り巻きの茶坊主たちが、フィルターにかけた情報しかトップに流さず、全ては穏便に済まそうとする風潮はないでしょうか。何故って、次席や茶坊主に失敗は許されませんからね。


「コーポレートガバナンス」「コンプライアンス」、皆見せかけの借り物ですよね。言葉そのものが日本語ではないのですから、社員はほとんど理解しませんよね。例えば、私は年度始めの社長訓示とか年度目標に「コアコンピタンス」とかの舌を噛みそうな言葉をはじめて見つけたときにも、眼を丸くしたものです。


どんどん木村氏の話題からは話がそれていきますが、最近読んだ橋本治氏の「上司は思いつきでものを言う」という本の中に面白いことが書いてありました。貴族には「官僚貴族」と「領主貴族」の二種類があって、ヨーロッパは基本的に「領主貴族」、日本には領主貴族はなく「官僚貴族」だけであると言うのです。


領主貴族は「株主」で、ヨーロッパの王様は「株主に承認された会社の経営者」なのです。「株主」は、「社員」ではありません-このあり方をもっぱらにするのが領主貴族で、官僚貴族とは、「自社株をやたらと持ってる社員」なのです。

「自社の株をやたらと持っている社員」は、株主総会の制約を受けません。「経営者」でもないので、「経営責任」も問われません-これが日本です。

��中略)

日本の支配者たちは、ずっと「官僚貴族」なのです。つまり、オーナー社長に対する、「自社株を買い集める」重役でしかないのです。(P.175-177)


企業や会社の仕組みを本当に理解している方からは、異論があるかもしれない主張ですが、そういうものかと納得できたりもします。この章の前では歴史を紐解き、蘇我氏と物部氏の古の戦いを引き合いにして、


「日本の権力者は、天皇に仕える官僚達の頂点に立ち、決して天皇を倒そうとしない」という、日本特有の権力構造(P.174)

が、そのときからスタートしたと書き、


「日本では、形式的なことが重要である」-このことが重要なのは、日本が変わらない官僚文化の国であるから(P.175)

と説明します。そして、それが日本の企業文化にも引き継がれ、以下のようになるのだとか。


近代以前の日本の支配者の基本形は、「社長になりたがらず、重役のトップとして会社の実験を握りたい」です。


私もまがりなりにも大企業に勤めていますので実感できるのですが、責任の所在がはっきりしていないのです。プロジェクトや成果の責任が誰に帰属するのか、成功したときや失敗したときは誰が責任を取るのか。形式的には「社長」ですが、社長も薄々そういうことを知りながらも、黙認したり暗黙の指示しているのではないでしょうか(本当に知らない場合もあるでしょうが)。


何か全体性の中でウヤムヤになってしまうのですよね、破局が来るまでは。一番胃を痛めるような思いをしたのは、事実を知っていた担当社員ではないでしょうか。雪印だって、これではいけないという工場長か誰かが告発しましたよね。


木村氏の言うことは正論ではありますし、せっかく一歩進めた議論を泥の中に引き落とすような駄文を書く意味はないのですが、まあヒマだったものですから、そんなことを考えたのでした。

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