2004年9月26日日曜日

展覧会:「琳派 RINPA展」


東京国立近代美術館で開催されている「琳派 RINPA」展を観てきました。今度の「琳派」展は、ちょっと違います。とうたっているように、会場に入って真っ先に目に飛び込むのが尾形光琳の《松島図屏風》とともに、クリムトの《裸の真実》であるということが、この展覧会の主旨を雄弁に語っているようです。


そもそも「琳派」とは何なのか。美術展で得た知識によると『狩野派のように家系や師弟関係を重視する流派概念ではなく、世代を越えて私淑によってゆるやかに繋がれた系譜』であり『主題性から解放され装飾性の優位と造形本位の伝統』であるとされています。



俵屋宗達にはじまり尾形光琳にて元禄時代に完成された、平面的にして適度に装飾的な画風は、自然の美意識を何の不安もなく描出した平和な世界と言えるかもしれません。





ですから、例えば江戸後期の画家、鈴木其一の《朝顔図屏風》(上)を観たときは、朝顔の青紫の色の鮮やかさに驚きはしたものの、綺麗なだけの絵ではないかと思ったものです。しかし、閉館間際まで粘って、来館者がまばらになった広い館内で改めて接すると、なんと表現してよいのか分からない至福が、まさに美の饗宴とも言うべき贅沢な時間が流れるのを感じることが出来たのです。綺麗なだけと思った鈴木の絵も、静的な装飾的技法と朝顔の蔓の動きに表された生命力が絶妙のハーモニーを奏でています。これは画面の近くで観ていては分からない。多くの人がメトロポリタン美術館所蔵のこの絵を絶賛するのもむべなるかなと。





上の酒井抱一の《月に秋草図屏風》も素晴らしい。金箔の落ち着いた地に秋の月と草花が絶妙な静けさと華やかさで描かれています。何度も絵の前に立ち、近くに寄って感嘆し、離れて観て溜息す。この絵の人気の高さもうなづけます。図録と実物を繰り返し比べてみましたが、図録ではこの絵の放つ芳香の何分の一さえ伝え切れていない。一足早い中秋の名月を堪能。





尾形光琳の《風神雷神図屏風》の裏面に描かれていたという、酒井抱一の《夏秋草図屏風》(上)も有名。銀箔(なのか?)の上に雨に打たれる夏草(雷神の裏)と、野分に吹きすさぶ秋草(風神の裏)が、様式美の中に定着されています。絵の上の間の豊穣さよ。




もう一つ強烈に印象的であったのは、川端龍子の《草炎》(上:部分 1930年)。この作品は「これを観たいために」展覧会に足を運ぶ人も居るくらいに人気です。初めて観る人も、異様な迫力に言葉を失っているようです。かく言う私もその一人。この絵を「琳派」と十把一絡げにして良いものか。川端は『夏の草いきれ』を描いたそうですが、ここには他の「琳派」の画風からは感じ取れぬ、熱い情念が流れてきます。凄まじいエネルギーと、それを鎮めている技法の高さ。夏草を黒い画面の上に金色の濃淡でのみ闊達と言える筆致で描き分けた異色作。これも人気のいない館内でゆったり感傷できることの愉快さときたらありません。





ここに至って「琳派」とは高度の装飾技法により、自らの情念と自然の動的エネルギーを様式美の中に固定させていることがその最大の特徴なのではないかと思いつきました。例えば光琳得意の波を表現するうねりにしても(上《松島図屏風》)、《槇楓図屏風》の樹木の枝の作る曲線運動からもそのような印象を受けます。


「琳派」と称される系譜に属する作品は、小さな画集のようなもので観るのでは、おそらくつまらないのではないかと思います。屏風図ということも影響しているのでしょうか。考えてみたら、こんなにたくさんの屏風図を観たのははじめてです。





上の菱田春草による《落葉》(1909)もそうです。ベージュ系の色合いが綺麗ですが、最初に観たときは、余りにもきれいなだけなんで、うんざりしたものです。しかし、心を落ち着けてゆっくり鑑賞しますに、幽玄さを感じさせる画面の奥行き感とともに、上から落ちてくる数枚の落ち葉が、静止しているかのような時間が穏やかに動いていることを感じさせてくれます。そう思ったら、流れる大気さえ頬に感じるような面持ちです。これも屏風図の実物に接しなくては感じることのできない印象でしょう。


最後になりますが、「琳派展」は宣伝のせいか、あるいは幸せな画風のせいか、凄く混んでいます。私は14半過ぎに館内に入りましたが、満員電車のような混雑で絵どころのさわぎではありませんでした。閉館間際までねばることで、やっと本来の「琳派」のもつ静けさと芳香を味わうことが出来たと思います。




マティスとか梅原龍三郎、加山又造の絵(《千羽鶴》上)もありましたが、こちらは終わりのほうで食傷気味なせいか、おいしくいただけませんでした。(加山又造、あれでは「やり過ぎ」です=これも人気の絵なんですがね)