2005年4月16日土曜日

歌舞伎座:四月大歌舞伎 歌舞伎十八番 毛抜

歌舞伎座四月大歌舞伎の夜の部についての感想を思い出しながら書きます。最初は歌舞伎座に1年ぶりに戻ってきた市川團十郎が歌舞伎十八番「毛抜」を演じました。


團十郎の粂寺弾正に海老蔵の勅使桜町中将、勘太郎は民部弟秀太郎、時蔵が腰元巻絹です。「毛抜」は弾正の人柄の魅力に尽きる歌舞伎でした。余り大きな立ち廻りは少なく台詞で見せる劇ですが、團十郎の余裕を持った大きな演技で楽しませてくれました。



この主役の弾正ですが、文屋豊秀の家臣で豊秀より小野家に使者として派遣されてきた人物。豊秀と小野家の婚儀が整ったのに、息女の錦の前が病気になっているので様子を見に来たというわけです。


そういう重大な使命を持っているにも関わらず、給仕に着た秀太郎や巻絹を口説いてしまうエロさを見せたり、両者にあっさり振られた後に悪びれもせず「近頃面目次第もございません」など客席に向かって謝ってみせたりと、なかなか愛嬌のある役柄です(秀太郎相手に腰を使い始めたところでは、隣の外国人も大笑いしておりました)。両刀使いというのも凄いですが。

一方で、殺された妹を帰せと迫る偽の万兵衛(実は悪人)に対し、それならと閻魔大王に向けて書いた書状を持たせ地獄に行けと斬り捨ててしまうなど、おおらかさとともに諧謔と豪放さを併せ持った人物です。

そういう役を、團十郎は楽しみながら演技しているようにさえ思えました。決まりの台詞を言ったり、見栄を切るときのワクワク感もたまりません。客席もまさに「待ってました」といった感じ。適度にハリのある声で、生来の明るさと人間的な広さのようなものが役ににじみ出ていているようで、何とも観ていて心がすくような劇でありました。


逆に、それ以外の役の方の印象がイマイチといったところで、孤軍奮闘という感じがしないでもないです。海老蔵は公家の勅使役ですから、まあそれまでといったところですし、勘太郎も初心な役柄で團十郎を引き立てるという役ではない。腰元の時蔵も、ちょっとあっさりしすぎ。「びびびびび」で笑わせてくれますが、淡白過ぎるような(笑)


舞伎を見始めたばかりで、しかも4階席からの観劇ですから、役者の細かな所作など見えるわけもないですから、役者のあそこがいいとか書けたものではありません。かなりいい加減な感想ですから、興味のある方はご自分で確かめてください。



それにしても、歌舞伎には変な魅力があります。おなじみの筋書きの中で予定調和の快楽といいましょうか。またはどんな型を演じるかというマニアックな楽しみや、型を超えた役者としての成熟を楽しむということもあるでしょう。何度も繰り返し観られることに耐えられるだけの劇としての面白さと(「毛抜」にしても、天井裏に仕込んだ磁石のせいで、姫の鉄簪筋がひっぱられて髪の毛が逆立つという設定なんですから、かなりムチャクチャ)、役づくりの深さ(役も結構ムチャクチャですが)があるのだと思います。


ムチャクなところを含めて、それが歌舞伎の面白さなのかもしれません。弾正の「近頃面目次第~」の台詞も、これを聞かなきゃ始まりませんし、幕が下りた最後の花道で「身に余る大役もどうやら勤まりまして御座りまする」を聞かなきゃ終わらないといった感じ。これを聞いて胸のつかえが最後にストンと落ちる。考えてみると水戸黄門に代表される時代劇で、決まって「この印籠が~」とやるマンネリを、昔は何が面白いのだろうと思っていたのですが、定型の中に潜む快楽に歌舞伎の面白さがあるのだろうかと思ったりしています。(>ヲヤジ化してきたということだろうか・・・)


これは好きな映画を繰り返し観るという行為とは全く異なったものですし、クラシック音楽を違った演奏家で聴き比べる楽しみとも(ある意味で通底する部分もなきにしもあらずですが)微妙に異なっているように思えます。クラシックやオペラと歌舞伎の違いは、歌舞伎には新解釈やら大きな意外性を求めてはいないということにあるのでしょうか、いわば形とか伝統というやつですね。


対して、フェニーチェ歌劇場の復活公演でのロバート・カーセン演出による「椿姫」など(3月末にTVで放映していたのを観た)、最近のオペラは何でもありのようですから、あのくらいは普通なのかとは思うものの、私などオペラ音楽を楽しむ以前に、演出が気になってどうもおいしくいただけなかったりします(幕が開くとヴィオレッタがベットに居て、替わるがわる男たちからお金を受け取るという場面から始まります。パーティーの席でのアルフレードはカメラを肩から下げていてヴィオレッタにご執心という具合)。オペラは演出家の時代になってしまいましたから、歌舞伎と比べるのもちょっと違うのかとは思いますが。


ここまで考えたときに、中村勘九郎改め勘三郎が、歌舞伎に色々な要素を取り入れているのは、伝統を越えて歌舞伎の新しい方向性を見据えているのかもしれません。ということで、毛抜は勘三郎抜きでしたので、お次は籠釣瓶となるわけで御座いますが、感想はいつになるやらです。