2005年4月21日木曜日

新勘三郎の籠釣瓶花街酔醒 追記

昨日、中村勘三郎と玉三郎の籠釣瓶の感想を書きました。他の感想はいかがかと、歌舞伎系ブログを拾い読みしてみましたが、なかなかにピンとくる感想に出会いません。勘三郎の襲名披露という華やかさのせいか、勘三郎に対して批判的な文章はほとんど見つからないのも、これまた不思議。


皆さん、勘三郎のキャラクターや演技がお好きな様子。私は2月から観たばかりですから、好きも嫌いもないですし、演技の凄みも歌舞伎座の幕見席からでは、ほとんど伺い知ることなぞできやしません。勘三郎は籠釣瓶で、ある種の狂気を演じていたとは思うものの、玉三郎に引っかかったように、どこかストンと腑に落ちない処もないではない。


そういう中で、南方演劇論というブログで勘三郎の籠釣瓶に批判的な文章を見つけ、成る程と思った次第。



4月8日の観劇日記にはこうあります。 


まず結論から言おう。

勘九郎、いや、勘三郎は、籠釣瓶を“喜劇”にしてしまった。


従来の籠釣瓶なら笑うべきところでない所で、客が笑う。

その原因は3つある。


最初から手厳しい。この御仁は勘三郎のドタバタがあまりお好きではない様子。正直なところ、私もそこに何かひっかかりを感じて勘三郎の公演を観続けています。


愛嬌と器用さは先代譲りなのは間違いないが、江戸明治という時代が持っている「闇」は、新勘三郎に限らず、今の役者すべてに無くなってしまったものである。

ここでいう江戸の「闇」が何であるか私には分かりませんが、心に留めておくべき事項かもしれません。今のところ、確かめる術も私にはありませんが。


現代性がこの戯曲の魅力であり、“喜劇”となりうる要素を胚胎していると言える。

ただ、喜劇として上演するなら、一度戯曲を解体し、きちんとした演出が必要となるだろう。

籠釣瓶が喜劇として解されるというのも釈然とはしないものの、劇の持つ現代性については、昨日触れたところ。歌舞伎を戯曲として解体してしまっては、もはやそれは歌舞伎にならないのではないかと。新歌舞伎と言われる歌舞伎や世話物が、リアルに演ずれば演ずるほど、私は歌舞伎としての魅力が減じ、嘘ら寒い思いで席から逃げ出したくなるのを抑えられません。


最後の殺人など、飛び上がって片足立ちになって斬る。別に妖刀の魔力なぞ見せなくても良いし、町人なのだから上手に斬るとかえっておかしい


確かに意外な斬り方でした、でもその芝居かかった大げささが、殺人というリアルさをそぎ落とし、そぎ落とすことによって反転したリアルさを獲得して歌舞伎足りえたと私など思ったものです。このリアルさから考えると、玉三郎の死に様はやり過ぎという気もするから演技とはわからないものです。