2005年5月9日月曜日

カブキを見にゆく ということ

戸板康二の「続 わが歌舞伎」の まへがき の冒頭に以下のようにあります。


先日、ある先輩が、なにしろこの頃の人達は、かぶきを見にゆくといふんだからね、時代が変わったよ、と嘆息するやうにいはれたのをきいて、自分でも初めて気がついたことなのだが(以下略)


え?「歌舞伎を見に行く」のどこが変なんだ?と昭和24年の戸板に問いかける、その答えは最後の章『芸談とは』にありました。





若い世代の人々は「カブキを見にゆく」といふが、老人は「菊五郎を見にゆく」といふ。つまり、演劇でなく、それをしばやといふ古風な発音をする年齢の見物にとつては、依然、歌舞伎は俳優を中心としたものであることに間違ひはない。


成る程、そうでありましたか。考えてみれば、ディープなクラシックファンは「音楽会に行く」とか「コンサートを聴きに行く」とは言わない。「ラトルのマーラーに行く」とか「ハーンのショスタコを聴きに行く」と言うわけであり、その点、ディープなファンにとっては、依然、コンサートはパフォーマーを中心としたものであることに間違いはない、という当然のことに気付いた次第。


さて翻って歌舞伎。海老蔵や七之助の二枚目振りはテレビなどで「そういうものか」と分かったものの、顔だけでファンになるほどに女性的でもミーハーではないし、かといって役者の個性など分からない。
團十郎が云々だの、富十郎がどうの、と言ったところで、それはある芝居での一面的なものでしかないことは承知の上、駄文を積み重ねている。


それでは、いつまでたっても、オーケストラごとの音色の違いとか、オケのメンバーの名前さえ覚えることができない、ナサケないクラシックファン(>俺だよ)と同じであるよなあ、などと、海老蔵の写真集を横目に眺めながら思うGW最後の休日でありました。