2005年5月4日水曜日

JR西日本の事故とpunctuality

JR西日本の事故に関してNorimitsu Onishi氏(ネット界ではちょっと有名な記者ですが)のN.Y.Timesの記事を紹介しながら、下記のように書く擬藤岡屋日記のFlamandさんの意見に頷く点はあるものの、
我々および社会のpunctualityに対する信仰に近いdemandがある限り残念ながら今後もこのような悲劇を避けることは難しい
とするならば、解決の糸口は果たしてあるのかと暗澹たる気分に襲われることも否めません。

秒単位の巧緻なシステムを作り上げていた旧国鉄時代からのダイヤは、日本の一面を象徴していたはずです。punctualityを導くような勤勉さとか真面目さ、システムに対する厳格さが日本の文化的特質であり、ひいてはこれが近代日本を作り上げて来た力であると信じてきたところがありますが、実はそれは、多大なる犠牲と無理の上に成立した幻想でしかなかったのか、あるいは社会がいつの間にか変質してしまったのか、いや、そもそも、そんなところにまで事故の遠因を求めるべきなのか。それでは亡くなった方々はとてもでないが浮かばれまい。ということで、拙い思考は出口を失います。

事故当日のボーリング大会と事故車に同乗していた運転士の行動に対する批判についてもちょっと考えています。彼らを糾弾するマスコミや一部世論の嘘寒さは別としても、改めて「共同体における当事者意識」のスコープについて考えさせられる結果となったことは確かです。どこまでを「他人事」であると判断するかは、事の重大さのとの天秤において判断されましょうが、その判断基準とて個人の属する共同体の規律や個人を形成してきた文化的なものに左右されるのではないかと思うのです。

今回の事件は人命がかかっているため、最優先しなければならない事件であったと思われますし、JR西日本には弁解の余地は余りないようには思えるものの、それでも事故の責務とその場の責務を考えた場合、取るべき行動を冷静に判断するのは極めて困難ではなかったかと思うのです。逆にその場の状況を見て咄嗟に自分が出来ることを行おうすることが、意識無意識のうちに何ものかに阻害さていたのだとするならば、個の責務を免責するわけではないものの、社会に何かが欠損していると考えるべきなのでしょう。

先のpunctualityに象徴されるシステムへの無条件な迎合や厳格さが、上記の要因の一つであるならば、やはり暗澹たる気分は深まります。陳腐な日本文化論みたいになってしまいましたが、事故の原因もJR西日本社員の当事者意識の薄さも、確かに深いところの根は同じなのかもしれず、事故が見せ付けた日本社会の断章は、またしても生じた集団的袋叩きと連帯責任を問う声も含め、あまりにもグロテスクであると言えます。でも、残念ながらk-tanakaさんの書かれるこういう主体性のなさをみると日本人って前近代的な民族だなあと思うし、これこそ天皇制が生きながらえている理由なのだろう。という達観にまでは到達できない。

事故にあわれた方におかれましては、ご冥福を心よりお祈り申するとしか書きようがございません。