2005年8月30日火曜日

歌舞伎:伊勢音頭の御師とは


pontaさんから紹介されたChunich Web Pressの解説「<觀翁万華鏡 おもしろ歌舞伎ばなし>芝居の際物とはなんぞや?」は面白かった。

そもそも貢の職業である「御師」が理解できないでいたからでもあります。テキストによれば御師とは私設神主と旅行代理業を兼ねたような特殊な業態。旅行代理店と言えば聞こえはいいが、要は精進落しの後は遊郭にご案内する役であるらしく。ここからも遊郭が当時の大人の健全な娯楽施設であったことが伺えますね。昼は靖国参拝して夜は六本木のニュー・ハーフ・ショーに団体で行くようなものか?(>違うような・・・)


御師の有様についてpontaさんは、武士の押しだしだが武士ではない、ぶまさ、不甲斐なさ、屈折した自尊心とそれが反転する苛立ち書かれており、成る程なと。貢が次々と人を斬ってしまうことについては、


自身の刀がなんであるかを直感できないような、武士であって武士でない男の半端な存在感が、妖刀にとり憑かれる根拠となっていることがわかるのだ


と指摘されています。おそらくは刀を掴む右手は血糊で固まり、自分ではほどくことが出来ないほどに固く握り締められていただろう無意識の狂気。


写真はChunich Web Pressから無断借用ですが、六世尾上菊五郎の福岡貢、七世尾上梅幸の油屋お紺(昭和23年7月、東劇)のもの。青江下坂をダラリと下げて、全く心ここにあらぬ様子で恋相手のお紺を見下ろしている様は、この小さな写真からでも貢の狂気が伝わってくるようです。対するお紺は相手が何をしようとしているのか理解していないようで、その無防備さがまたリアルです。


仲居の万野がなぜ貢に良い感情を抱いていないかについても、再びChunich Web Pressの解説によれば、店の経営者にとってこそ、大事な御師様だが、一介の従業員には存在意義がわからないから、御師をいやがる。その代表が万野だというのです。

舞台でも万次郎を待って引付座敷(?)に居座り続ける貢に対し、万野は「一文にもならない客相手にしていても」みたいな憎まれ口をたたいています。そう考えると単純ではありますが、それにしても、お鹿への手紙の小細工や最後の殺人に至る台詞などを思い出すに単なる「金にならない客」というレベルを越えた複雑な感情を万野からは感じます。


とまあ、かように深読みしながら芝居を反芻するのも、また楽しであります。