2005年8月12日金曜日

国家が戦う国家であってはならない根拠は何か?

「松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG」の高橋哲哉『靖国問題』を批判する(上)にある一文であります。「国家が戦う国家であってはならない根拠は何か?」 この問いは難しい。




近代国家が武力を背景としての国防と領土拡大(天然資源と労働力確保)を前提として成立していたものとするなら、国家間の利害を解決するため場合によっては「戦える国家」であらねばならなかった。いやこれは「近代国家」に限定せず、有史以来の「国家的」なものが有した属性であったのかもしれません。過去の歴史は戦争の歴史であり、人類が戦争をしていない時期などないかもしれないのですから。


「戦う」前提には共同体=国家に対する帰属意識と愛着(ナショナリズム)があり、それは国家が個人に対して、例えば人権保障や選挙権や庇護という、国家と個人の間での権利と義務があったはずです。


そのような国家においては「戦える国家」であることは議論の余地がないのですが、日本は戦後の米国との関係を含め捩れた関係と観念に支配された時期が長く、ここを本気で議論したことがなかったのではないかと思っています。逆に言えばナショナリズムが育たぬ故に、国家意識の希薄化と「靖国問題」が問題化する土壌が出来てしまったのかと。


好悪や感情論に帰結させるならば、国家が戦う国家であってはならない理由は、国際法的に紛争解決に戦争が禁止されておらず、どんなに戦争の大義をうたおうと、戦闘行為は破壊と殺人を伴うからという点に尽きます。相手を抹殺しなくてはならないほどの絶対悪である規定することなど倫理的にできるのでしょうか。だからといって「非武装中立」が現実的でないことは承知しますが。


で、新たな疑問が更に沸きます。では「国家」とは何なのか。真面目に考えたことないですからね学生時代も。