2005年8月28日日曜日

「歌舞伎」が面白いということ


一閑堂のpontaさんから「歌舞伎役者が演じるから歌舞伎」にトラックバックを頂いたのは幸いでありました。非常に示唆に富んだサイトで、読みながらウンウンと頷いている自分がいたりします。


もっとも「歌舞伎とは何か」という問いに対して、pontaさんのような理路整然とした回答は出せないものの、歌舞伎の発生の経緯を考えても歌舞伎はエンターテイメントなのだから観客にウケるように変質してゆくのは当然という類の主張には素直に頷けないでいるからです(注:pontaさんの主張ではない)。


私が歌舞伎に感じていることは、pontaさんの文章をそのまま借るならば、



  • 歌舞伎は、江戸の美意識を知るよすが
  • 幾度の拡大再生産にも耐えうるパターン化演劇システムというのが、私がなんとかとらえた、歌舞伎産業の基本のキ


と指摘する点に極めて近いものです。歌舞伎には少なくとも「美」がなくてはならないことと「単純に繰り返されることに耐えうること」が必要であると感じています。「拡大」が必要かどうかは今の私には分かりません。


現代に生きる私たちが歌舞伎を観ますと、展開が遅いし肩の凝る事も確か。だから時に「笑い」も必要ですが、奇を衒った演出や「ギャグ」には賞味期限があります。私は「十二夜」も「法界坊」も見ていませんが、例えば「研辰」に使われていたホットなギャグの数々は再演されるとしたら全て書き換えが必要でしょう(実際、初演のものとは違ったものに書き換えているのでしょうが)。


時代を先取りすればするほど、次の瞬間にそれは古ぼけたものになる、現在の時間の進み方は極めて早い。「喜劇」ならば、その中で普遍たりえる「笑い」を抽出することこそ必要。うわべのバカ騒ぎはアペリテフかトッピングでしかないと思いますし。もっとも、野田氏の演出は単なるバカ騒ぎだけで終始しておらず、現代的な悲喜劇を作品に盛り込むことに成功していることは以前書きました。その意味からは野田劇としては秀逸な出来であると思います。


自分にとって「面白い」とは何かを見極めることも、私が歌舞伎を観ている理由の一つであります。歌舞伎を観ていると、役者の仕草態度の一つが何て「イキ」なんだろうとか、女形の所作の中に限りない艶やかさを感じたりします。それは「型」として踏襲されてきた、かつての「日本」の時代精神の片鱗なのでしょうが、わたしはそこに限りない愛情を感じたりもしていますし、それを発見するのが大きな楽しみの一つでもあるのです。