2005年8月1日月曜日

高橋 哲哉氏:「靖国問題」



サンデープロジェクトの「靖国問題」を見た余勢で、最近本屋に山積みされている高橋哲哉氏の「靖国問題」(ちくま書房)を購入して読んでみました。
非常に丁寧に「靖国問題」が何であるかについて、

 第一章 感情の問題~追悼と顕彰のあいだ
 第ニ章 歴史認識の問題~戦争責任論の向こうへ
 第三章 宗教の問題~神社非宗教の陥穽
 第四章 文化の問題~死者と生者のポリティクス

と大きく四つの面から論理的に説明しています。最終章は

 第五章 国立追悼施設の問題~問われるべきは何か

として筆者の見解をまとめています。

「靖国問題」を問うことは、A級戦犯の合祀のみならず「東京裁判史観」を問うものであることは、私も何度も書いてきましたし、問題がそこにあるからこそ政治的問題に発展する要素を孕んでいるわけです。高橋氏の態度は明白です。

東京裁判を「勝者の裁き」として拒否し、「A級戦犯」断罪を容認できないと主張するなら、戦後日本を国際的に承認させた条件そのものをひっくり返すことになってしまう。(P.69)

歴史はひとつではありませんし、国によって同じ事象が全く正反対の歴史として記述されるのも珍しくありません。また時の為政者により「造られる」のも歴史です。安倍氏のように判断を未来に委ねることも一つの手でしょうが、それではあまりにも日本的な曖昧さに満ちすぎております。政治家としての責任についても疑問を呈してしまいます。

高橋氏の態度は上記のようなものですから、現在の靖国神社のありようには否定的な見解を示すこととなります。靖国の本質については以下のように喝破します。

靖国の論理が近代日本の天皇性国家に特殊な要素-とりわけ国家神道的要素-を有している反面、そうした特殊日本的な要素をすべて削ぎ落としてしまえば、そこに残るのは、軍隊を保有し、ありうべき戦争につねに準備を備えているすべての国家に共通の論理にほかならない(P.197)

とし、

国家が「国のため」に死んだ戦死者を「追悼」しようとするとき、その国家が軍事力をもち、戦争や武力行使の可能性を予想する国家であるかぎり、そこにはつねに「尊い犠牲」、「感謝と敬意」のレトリックが作動し、「追悼」は「顕彰」になっていかざるをえない(p.205 太字本文ママ)

と説きます。従って彼の結論は、

非戦の意思と戦争責任を明示した国立追悼施設が、真に戦争との回路を経つことができるためには、日本の場合、国家が戦争責任をきちんと果たし、憲法九条を現実化して、実質的には軍事力を廃棄する必要がある(P.220)

となります。靖国問題が過去の戦争責任と将来の国防のありようにまで結びつく故に「靖国問題」は政治的であり、また日本政府が戦争責任を明確化していない点でアジア諸国からは「外交カード」として使われ、多くのアジアの人の感情を逆なでしています。一方で日本の戦死者たちをもある意味でないがしろにしているわけです。

「将来の国防のありよう」についても議論百出でしょうし、いまだ「日米安保」さえ明確にできない日本において「靖国問題」が決着することなどありえないと本を読んで感じるのでした。

これで「靖国問題」の全てが語られているとは思えませんが、わかり易い点であることとタイムリーである点から「売れる」本かもしれません。