2005年9月18日日曜日

歌舞伎の美学

渡辺保氏の「歌舞伎 過剰なる記号の森」(筑摩書房)を読み始めましたが、「口上」と題された序文の中の一文が鋭く目を射ました。


古典劇としての歌舞伎には、それ自身のなかに伝統的でかつ不変の一つの美学があるように思える。しかし実はそうではないのである。(中略)そこにはむろん変わらないものもあるが、変わったものもある。変わらないものはその形式(たとえば女形)であり、変わったものはその内容(たとえば女形の芸風)である。(P.10)



この変化がどこからくるかといえば、(中略)私は時代の感覚が変わったからだと思う。(中略)その時代の感覚の変化の基本となったものは、私たち観客の感受性の変化でもある。役者とともに、役者と交錯しながら観客の美学というものが変わったのである。(P.11)


先に紹介した中野雄氏の「丸山眞男 音楽の対話」。丸山はカラヤンの振るベルリン・フィルをトスカニーニとNBCのヨーロッパ版言い、「なんという絢爛としたむなしさ」(P.229)という一言のもとに評しました。丸山が愛したフルトヴェングラーに象徴された音楽の時代が聴衆とともに変化したことを如実に表した一言です。


再度問う、いったい私たちは、何を観て何を聴いているのか、いや、何を守り何を求めているのかと。