2005年10月4日火曜日

戸板康ニ:「歌舞伎の話し」

戸板康ニの「歌舞伎の話し」(講談社学術文庫)を読み始めました。本書は1950年、戦後間もない頃に刊行された同名の書を文庫本化したものです。今から半世紀も前の本なのですが、戸板氏が歌舞伎に問いかけているものは、今でも充分に通用することに驚きを禁じえません。彼が問いかけているものとは即ち「現代文化における歌舞伎の位置」というものであり、では歌舞伎とは何なのかを「批評」「歴史」「役柄」「演技」「劇場」「脚本」「芸術性」「大衆性」から問い直しています。



日本の国の特有なものが次々と変貌してゆき、それに対する価値判断が刻々にかわってゆく現代において、歌舞伎についても何かしら定義をこの際下しておく必要があると思います。(「歌舞伎の話し」P.13)


戦後から5年を経た日本は、まさに激動のように変貌を遂げつつある時代であり、戸板氏が指摘するように、歌舞伎は古臭く敬遠されるものという印象が強かったのかもしれません。そして戸板氏は歌舞伎の「芸」について、当人の意識しないところに生れる不可測の何者かが生み出す成果に、すべてがかけられていると説明し


端的に歌舞伎の脚本を理会し、演出を研究し、演技を習練したというだけで、歌舞伎を(素人が)演じるなどということは、それがどのように努力が傾けられたものであっても、素人が演じたものは本ものの歌舞伎ではない(「同書」P.17)

とし、素人の演じる歌舞伎がどこまで行っても本ものにはなり得ないという宿命的な事実が歌舞伎にはあると断言しています。他の演劇や音楽などの芸術世界とは全く異なった要素があることを示唆してます。この感覚は非常に新鮮なものでありました。先に読んだ渡辺保氏の「歌舞伎」も、「芸」という題から本章を始めており、芸は単なる技術ではないと説明していたことを思い出します。


残念ながら歌舞伎を観ていて、私はまだ芸のもった奇跡であり、幻術である。幻術は底が知れずいかがわしい。(「歌舞伎」渡辺保 P.041)と渡辺氏が書くほどの芸には接したことがありません。それを「見る」までは、私の歌舞伎通いは続くのでしょうか。(それには、3階席以上の値段の席を入手しなくてはならないのでしょうが・・・)