2005年10月10日月曜日

戸板康ニ:「歌舞伎の話し」 その2

198頁程の薄い本なのですが、業務多忙によりやっと読み終えました。


以前も触れたようにこの本が発行されてから50年以上が経つというのに、歌舞伎をめぐる状況は当時のありようと表面上は変化していないのではないか、というくらいに「現代」に置き換えても読むことができるものでした。




歌舞伎ファンが客席から「なな代目」とか「松音屋」とかいう片言を叫んでいるのをきくたびに、わたくしは、果たしてこれが歌舞伎が栄えていることになるのかと疑わずにはいられません。あのような人気は、過去のそれとは違っています。(「第七話 その芸術性」P.166)


現代でこそちょっとした「歌舞伎ブーム」を呈していると時々言われますが、これとて戸板氏が見ていた50年前の歌舞伎とは全く異なったものであるのだろうと思うのです。その時々で変わっていく歌舞伎に対し歌舞伎の「美」を準拠とした演技術に反抗する俳優が、およそ三十年に一人位ずつ出ている(P.166)と書いています。歌舞伎俳優について不勉強ですが、例えば中村勘三郎なども、その一人に挙げられるのでしょうか。


戸板氏は歌舞伎の台本や演技を現代劇のリアリズムから批判することは意味がなく、つまりは歌舞伎の「台本」は文学ではなく、役者重視の発想の元に役者を際立たせるため、あるいはそこに現れる美を表出するためにあると説いています。私自身はまだ役者の好みにまで言及できる程に歌舞伎に接している訳ではないものの、舞台で俳優が「きまった」ときの快感は例えようもないもので、ツケが高らかに打ち鳴らされたときの、笑みさえこぼれてしまうような瞬間が見たくて歌舞伎座まで脚を運んでいるという気もしています。


予定調和的な陳腐な筋書きを愚であるとする人には、(戸板氏も書いているように)おそらく歌舞伎の面白さをいくら説明しても無駄なことなのかもしれません。逆に歌舞伎の持つ崩してはならない「美」というものを捨て去るならば、それはその時点で歌舞伎であることを放棄しているのかもしれません。


脚本がナンセンスであるのに、それを越えたところに歌舞伎の真価があるということで、ふと思い出したのはモーツアルトの「コジ・ファン・トゥッテ」です。あの莫迦げたダ・ポンテの戯曲にモーツアルトは信じられないほど美しい音楽を付与しました。今でこそダ・ポンテの戯曲の持つ現代性や深さが見直されていますが、当時は「戯曲」などどうでも良く、モーツアルトの妙なる音楽にこそ価値があったのかもしれません。ロマン派的な価値観の持ち主にとっては、ベートーベンのみならずワーグナーさえ「コジ」には否定的な批評を残してます。


歌舞伎の台本も、心理などを深読みすることができるものもありますが、そういうアプローチは本来的なものではないのでしょう。


六代目菊五郎などの持っていたリアルな演技は、実はそういう習練を隈なく経たのちに入っていた境地であることを知ってほしいと思います。

要するに、
伝統演劇の場合は、モーション(動作)を学んでいるだけで、エモーション(感動)が内奥から起こって来るのです。新劇の場合の、役への入り方と全く違うことを強調したいと思います。(「第四話 その演技」P.127)



この一文を読んでハッとしました。音楽の話題になってしまうのですが、これはバッハの音楽を演奏する時に似ているのではないかと思ったのです。バッハの時代は楽譜には強弱やアーティキュレーションなどの表示がありません。それをロマン的な演奏手法で演奏すると何だかバッハがバッハでなくなります。「楽譜に書かれたとおりに演奏すれば、おのずと音楽が立ち上がってくる、余計なことをするな」と何かの折に聞いたことを思い出しました。ちょっと脱線した余談ではありました。