2006年10月15日日曜日

桐野夏生:柔らかな頬



グロテスク」に続いて読んでみたのが「柔らかな頬」です。本書を読んで、桐野氏の作家としての力量に対して感服の念を覚えました。彼女はミステリー作家という分類のようですが、テーマは決してミステリーではありません。



本書をどのような「物語」として読むかは人それぞれでしょう。私は「グロテスク」「柔らかな頬」
と続けて読んで、彼女の作品に通底するキーワードとして「解放」「サバイバル」ということを考えてしまいます。


人は色々な束縛やしがらみの中で生きています。ある場に居ることが本来の自分を損なうからと逃避したとしても、別な場は再び時間とともに自分を拘束し始める。この束縛と解放の、再生と崩壊の無限運動。「解放」に向う個は、自分が自分であることに強すぎるため自己中心的であり他者への思いやりは極めて希薄です。


死ぬまで自分が何者なのか確認し続けることの虚しさと哀しさ。その確認する作業そのものが生きる証でもあるかのように、他者を傷つけ、ひたすらに走り続ける主人公たち。自分と他人の絶対的な差異の自覚、いや過去の自分と現在の自分さえ、そこには異質なものが横たわる。他人とは分かち合えないことを自覚したときの、他者が絶対に介在できないギリギリの孤独。極めて個人的な存在である「肉体」というもの、肉体を貫く「性」の意味。しかしそれでも人は求めてしまう、その果てしない虚無を埋めるために。


この小説を読むと「グロテスク」は、本書のテーマから敷衍して圧倒的に肥大化した個の物語であるとも読めます。だから作品に結論も解決もありません、というか必要ないのです。「子供が失踪した」ということはミステリーの枠を超えたところに存在しているのです。


そういう意味から、第十章 砂岩は唯一作者が読者におもねた蛇足と感じたものです。作者のコメントを読むと、そういう意図ではなかったようです。アマゾンのレビュを読むと「ラストが賛否両論」とのコメントが多数ですが、私からすると、まったく意味のない議論です。「事件」の「解決」を求める読者が多いことも、後から知りました。犯人が誰か分かったところで、何も得られないというのに。