2006年11月25日土曜日

シューベルト:交響曲 第9番 ハ長調 D944《ザ・グレイト》/テンシュテット(1984 Live)








  1. ウェーバー:「オベロン序曲」

  2. シューベルト:交響曲第9番《グレイト》

  3. ブラームス:「悲劇的序曲」



  • テンシュテット(cond)、ロンドンpo.

  • BBC Legends/BBCL 4195-2(England)



ホワイトノイズは乗るものの、非常に優れた演奏です。レビュを書きながら何度も繰り返し聴いています。そしてやはり《グレイト》はグレートだなと思うのです。



シューベルトの《グレイト》は果たして楽天的で天国的な曲であるのか。私はテンシュテットの演奏を聴いて、その考えに疑問を持ちました。ラトルはこの曲は聴く者の不安を募らせる地獄への楽しい馬車の旅というものが存在するのであれば、まさにそのような感じの、終着点が全く見えない曲と評しました。そういうラトルの演奏では「地獄への楽しい馬車の旅」という印象を残念ながら受けなかったのですが、テンシュテットの演奏からは逆に私は楽天性を聴き取ることができません。


テンシュテットは独特の推進力で第1楽章から曲を煽ります。シューベルトの冗長な繰り返しが切迫した感じで演奏されます。明るさや楽天よりも別の要素が聴こえてくるように感じます。すなわち、《グレイト》はシューベルトの描いた《運命》であり、かつベートーベン的な歓喜の爆発ではなく、生と死の深淵からの必死の逃走ではないかと思えてしまうのです。


この演奏には「闇と悲しみ」「惑乱し引き裂かれた自己」「死に向う狂騒」のようなものを感じます。それが「天衣無縫の楽天性」によってオブラートされながらも、あちらこちらで暗い影が顔を出すのです。「天国的な長さ」は最終的に辿りつく先を回避したいがための、無限に回るメリーゴーランドを思わせます。


だからといって、テンシュテットは感情移入たっぷりに歌い上げているわけではありません。第2楽章など、歌いどころ満載なのに結構あっさりと通り過ぎます。


終楽章は聴き所でしょうか。ベートーベンのシラーの歓喜の断片が姿を見せたりはするものの、とことんに明るい狂騒の中にかき消されます。いつもならラストに向う盛り上がりは歓喜に向けての序奏のように聴こえるというのに、テンシュテットの演奏では不安の増長を感じます。そして今までが明るいだけに、あの低弦による確信的なユニゾンの繰り返しには心底ゾッとします。忘れていフリをしていたのに、ついに追いつかれた暗い運命に飲み込まれた瞬間であるのか。行き着いた先はラトルの言うように「地獄」であったのか。あまりにも決然とした結論と明るい諦念。


かのsyuzoさんはこんなに明るくていいんだろうか?書きます。終楽章についてはパレードかお祭り騒ぎのような明るさとも書いています。あまりにもかけ離れた私の印象に愕然としてしまいます。もっとも、違った日に聴くと全く違った印象になるのも音楽レビュのいい加減さです。「お祭り騒ぎ」は自らの内部で捩れた感情の表出、言い換えるならばベートーベン的ストレートな心情よりも、マーラーのそれに近いものを感じるのです。何度も聴いていたら、上記印象が麻痺してきたし・・・今日は考えすぎでしょうかね(^^;;