2007年3月25日日曜日

山本七平:日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条


毀誉褒貶、賛否両論の多い山本氏の本(初出1975~76年「野生時代」)、2004年初版以来19版を重ねています。帯の奥田硯会長が「ぜひ読むように」とトヨタ幹部に薦めた本というキャッチが効いています。世界の大企業と真っ向勝負をして時価総額を高めているトヨタの会長が薦めるのですから最強です。


私にとって山本氏とは「胡散臭い」というイメージが刷り込まれています。学生時代は朝日新聞、本多勝一的な思想の影響を少なからず受けていましたし、イザヤ・ベンダサンの名で出した「日本人とユダヤ人」も成る程と感心する以上に浅見氏の批判の方が印象に残っています。ですから今更山本氏の本を読むことに抵抗はあったのですが、あれから私も随分齢を重ねました。




もっとも、虚心に読むならば、山本氏のメッセージは割りと素直に現代に生きる私に届いてくる。山本氏の根底にある、自虐的な日本人観に違和感や嫌悪感を覚える人もいましょうが、許容できる部分と、そうではない部分を切り分けて味わってみれば、考えなくてはならない点は多々あるのだと思います。


本書は、軍属としてフィリピンに赴き、捕虜となった小松真一氏が、戦争当時に書き綴った「虜人日記」と「敗因二十一ヶ条」をベースに、太平洋戦争の敗因とその後の日本について言及した本です。太平洋戦争に対する疑問や反省、敗因分析の妥当性にのみ論点を見出すと、山本氏の提示した問題点を矮小化してしまいます。私は所謂「山本学」に私は精通しているわけでもないので、欧米と比較した「日本人論」として読むこともしません。


そうした中から抜き出したエッセンスは、組織論と意思決定という点。本書を貫くのは各章で繰り返される「組織内における自己規定の問題」に尽きています。そして明確に、通常の自己と組織の自己が連続したものとして規定されていることが重要であると説いています。

本書の最後の4行は、私には衝撃的な一文でした。


戦後は「自由がありすぎる」などという。御冗談を! どこに自由と、それに基づく自由思考と、それを多人数に行う自由な談義があるのか、それがないことは、一言でいえば、「日本にはまだ自由はない」ということであり、日本軍を貫いていたあの力が、未だわれわれを拘束しているということである。(P.311-312 「第十二章 自由とは何を意味するのか」)


この言葉は、戦中の国民の潜在的意見(すなわち国民の日常性における戦争への疑問と不信、実生活との乖離、厭戦観)が世論になりえず、国の基本方針となり得なかった、ということにつながっていると思います。


敷衍するなら太平洋戦争の敗因は日本の意思決定の誤りであると山本氏は言っています*1)。日本国の指導者が、戦争突入という最も高レベルにおける戦略的意思決定において、意見の対立を封印し虚偽の報道により形だけのコンセンサスを獲得し、それゆえに正しい現状認識、政府決定に対する高度のコミットメント、そして組織的問題解決能力を備えていなかった*2)ということ。


もっと小さな組織体、企業であれ組織内の部署であれ、同じような状況が今も再現されており、組織内の「自由」が封印*3)されているのだとしたら、日本(組織)は敗れ続けて当然なわけであります。




  1. 本書では当時の日本の状況と、米国の最後通告である「ハル・ノート」に関する論議については一切触れていない。「太平洋戦争に意味がない」とする主張は、氏の戦争体験がベースとなっており、その意見に意味がないとは思えない。
  2. 「日本軍の強さ」が中小企業・零細企業的個人の持つ"芸"に依拠し、客体化できる"技術"ではなかったとする指摘は面白い。現代において、"芸"は"技術"に転用できない、という氏の指摘を過去のものとすることができているだろうか。
  3. 日本は「組織」ということを、ネガティブな要素として捉える感覚がないだろうか。特に最近の若者にその傾向が強いように思える。しかし、現代に生きる人間は何らかの組織に属さざるを得ない。その組織内で「自由」が制限されている故に、組織から離れたときに「解放感」を感じる。あるいは「解放」されたいがため、日本においては「ブログ」的なものが隆盛なのかと、要らぬことまで考えた。個と組織が不連続ということなのだろが、個と組織は連続すべきものであるのか?という命題もある。