2007年6月11日月曜日

展覧会:「アートで候 会田誠・山口晃展」

上野の森美術館で開催中の「アートで候 会田誠・山口晃展」を観てきました。名前を聞いても分からないかもしれませんが、どちらの作品も、観れば「ああ、あの」と思える作家です。お馴染みの弐代目・青い日記帳はろるど・わーどに展覧会レビュがありますので、興味ある方はそちらからどうぞ。

私はどちらかというと、常識的な人間ですから、山口晃氏のファンでありまして、彼の作品を目当てに行ったのですが、行ってみれば果たして、会田氏の毒気にすっかりやられてしまいました。

会田氏の「毒」は結構危険です。良識的な見地からすれば、「エロ・グロ」とか「猟奇的」であり、とても「良い子」にはお薦めできないシロモノです。しかし、かつては「芸術」と呼ばれたこの領域は、もともと「毒」を含んだものであり、時代への擦り寄りと反発という相反する中から、新たな表現を生み出していた筈ではあります。

会田氏の作品からは、「ふざけた輩だ」という思いと、それでも作家としての自我に非常に従順で真摯な姿を感じます。彼の残虐にして美しい作品は、それを観る人の眉間に皺を寄せさせつつも、鑑賞者の中の何かを確認させ、そして崩壊さる力を持っています。まさに時代と自分が透けて見え、「この世から背広を着たサラリーマンを抹殺したい」という凶暴なる欲求さえ隠そうとしない、ナイーブな会田氏の目線が、観る者の奥深いところを突き刺すのです。会田氏の作品を「好き」とは言えないまでも理解を示したならば、自らがいびつな現代に生きる個であることに抗えないことの表明であり、後ろめたい快感と、その反面として自責と、そして開き直りさえ覚えるかもしれません。かように良識人は会田作品を前に振幅を大きくし、作品を認めはしても、条件付で全面肯定を留保し、そして分かる人にだけ語りかけゆくのではないかと思うのです。ですから、会田氏を熱く語る人の言葉は、かなりベタにして捩れているのではないかと予想します。

一方、山口氏の作品には、そういった危険な毒はありません。なんたって、天下の都営地下鉄や三越が採用したがる画家なんですから、良い子も大人もオバチャマも、みんな山口氏の絵が大好きです。大画面の細密画の前に立ち止まり、作品の細部を指差し語り合い、微笑みます。そして、これまた「チマチマしたものが好き!」「トーマスを探したい!」という、抑え切れない衝動を解放させます。日本画的鳥瞰視線から、東京という都市と現代の日本と歴史を再構築させ、その違和と同質に驚きと快感を感じます。山口氏の徹底したディテールは、絵を観る楽しみ、再発見する喜び、眼の享楽を素直に与えてくれます。

��階の展示場だけでなく、2階の「山愚痴屋澱エンナーレ 2007」も圧倒的に面白くて、例えば標識シリーズなど笑いをこらえるのが困難な程だったりします。今回の展覧会の為に描いた山口作品の中で最大規模の「渡海菩薩」もありますので、見ごたえ充分な展覧会です。

それにしても、日本の美術界も変わったものです。会田氏は1965年、山口氏は1969年の生まれ、マンガやアニメで育った世代です。私は、極めて絵の上手い少年マンガ家や少女マンガ家と、イラストやアートの違いというのは一体どこにあるのだろうと、マンガを読みふけっていた頃は随分と悩んだ*1)ものです。例えば少女マンガならば70~80年代の「りぼん」で活躍した内田善美。美少女を描かせたらナンバーワンの江口寿史。あるいは、圧倒的な絵でマンガ表現の常識さえ変えた大友克洋。水墨画を思わせる驚くべき技巧の鄭問。これ程の筆致*2)がマンガでしかないこと、なぜ、現代を切り取る先鋭的なアートにならないのかと。

そんな疑問を、やすやすと、この二人は越えています。まあ、しりあがり寿だってアート*3)になる世の中ですから、美少女を描くのが好きな会田氏や、チマチマした都市風俗を書くのが好きな山口氏が受容されるのも時代なのかなと思ったりします。

あと、山口氏を好きな人と若冲を好きな人って、かぶるような気がしていますが、takさん、どうなんでしょう?


  1. いちおう、高校時代は美術部でしたし、そのころは、シャルダン、フェルメール、レンブラント、ターナー、モネを敬愛していましたから。おっと、六本木に行かねば!
  2. これらのマンガ家の絵を思い浮かべ、好きと思える人ならば、会田、山口氏の絵は好きになるでしょうね。話はそれますが、単純な線描写の天才を上げれば、倉田江美と高野文子になりましょうか。実は、いしいひさいち も絵的に天才の一人だと思っています。
  3. かつての「ヘタウマ」の系譜ともちょっと違うと思う・・・