2007年9月3日月曜日

重松清:疾走(上)(下)






救いようのない物語。14歳から15歳の、たかが中学生に、作者がここまで過酷な運命を背負わせたこと。絶望というには生ぬるく、物語は最初からお終いまで、壊れ堕ち続ける短い人生を描きます。ここまで極端なプロットを用いないと、現代の青少年を描き切れない程に闇は深いのかと。重松氏の「言葉」は、誰に届くのか、届いて欲しい人に。


友情が、兄弟が、親子が、夫婦が、家族が、親戚が、人間が、いや「にんげん」が壊れていくということ。絆も関係も消え去り「ひとり」が残る。恐ろしい程の虚空と「孤独」。「孤独」と「孤立」と「孤高」の違いが物語の途中で語られます。「強さ」とは、何に裏付けられた強さなのか。弱さを克服するとは。救いようのない孤独の中で、主人公が求めるもの、叫び、捨てられるもの、あがき捨てきれないもの。


主人公は、徹底的な孤独の中で、いったん「言葉」を捨てます。「風景」さえ捨てる手段を身に着けました。彼が最後のバランスを取って「生きる」ために取った手段だったのかもしれません。彼には兄のような「壊れ方」をする程には人間が安易にはできてはいなかった。まさに「考えたら壊れる」程の体験をさせられても、自分を捨て、そして自分を守りきります。


どんなに不幸だと思う時代であっても、後から考えると、その不幸なこと自体が「幸せ」であったという人生。主人公にとっては、作品評価の分かれる大阪のホテルにおける「地獄」でさえも、まだ最悪ではなかったのかもしれません。あれが取り返しの付かない、かけがえのない「時」であったと気付く時。それを過ごしている時には、絶対に分からない。だから。


言葉に絶望しながらも、しかし、彼は最後まで「言葉」を捨てられない。彼にとっての「聖書」は超越的な存在としての「神」ではなかったのでしょう。「言葉」そのもの。「ことばとはなんだろう」。主人公はかつて問いました。彼が最後のギリギリの場面で聞いたのも、見ず知らずの者の「言葉」。


物語に救いはあったか、彼は、救われたのでしょうか。彼を確かに見守っていた存在。彼の存在そのものを許し、信じていた存在。人生が、ここまで堕ちるほどに、人間がここまで壊れるほどに酷くないならば、いや酷くても、だからこそ信じ、そしてどこかに確かに救いの手はあるのかと。


読んで愉しい本では全くありません。ドストエフスキー*1)の過酷さ*2)は、いつか読み返す気になったとしても、本書を再び読み返したいとは思わないかもしれません。



  1. ドストエフスキーは最終的には魂の救済と神の問題を扱っていたような気がする。重松氏は「旧約聖書」を引用したとしても、宗教に救済を求めたわけではなさそうである。amazonの書評もざっと眺めたが、聖書の「言葉」は読者には「届いていなかった」ように思える。
  2. この小説の「過酷さ」はゲンダイ日本における「過酷さ」であって、これより「過酷な」人生は、実は他にも存在する(した)ハズで、そういう点からは、彼ら主人公さえ「あれが不幸なら、世の中に不幸なぞ存在しない」と言い切る人も、どこか遠い世界と時代には居る(た)かもしれない・・・。ロクに不幸とか絶望を知らないクセに蛇足でしたか。