2009年8月31日月曜日

衆議院選挙の結果

衆議院議員選挙は、蓋を開けてみれば民主党の単独過半数確保、絶対安定多数確保の圧勝という結果で終わった。風が吹いたというより暴風というのが印象でしょう。

民主党の圧勝の理由として、国民の多くが、自民公明による一党独裁に近い戦後政治に嫌気がさしただとか、小泉政権が生み出した格差に対する不満とか色々な理由ありましょう。小泉政権下での郵政民営化を争点として争った前回の衆議院戦況。あの時は、鳩山代表などが伸び悩む当選者の報を前に暗い顔をしており、立場は逆転したものの、全く今回と逆の風景であったと思い出します。これが小選挙区制の怖さと言ってしまえばそれまでではあります。

今回の民主圧勝について考えるに、小泉政権が誕生した2001年あたりから、自民崩壊の芽は顕著になってきたのだと考えています。小泉氏は「自民党をぶっ壊す」というキャッチフレーズで、当初、国民の圧倒的な人気を獲得しました。小泉氏が持ち込もうとしている政治とか制度が何であるのかも理解せずに「変革」というムードに乗ったというのが当時。それと同様に、郵政を象徴的なものとして「解体=改革」するというイメージを刷り込み、自民分裂に追い込みながらも、自民対自民の構図を作り上げ与党圧勝を演出したのが前回の選挙。世界同時不況後の米国でのオバマ旋風は「改革」を旗印にしたエネルギーを感じ、翻って更にわが国の閉塞感に、みなもう嫌気がさしていたというのが本音か。マニフェスト選挙とか言われたとしても、民主党を完全に信頼するほどに国民もバカでも無知でもない。しかし、それであっても自公政権の顔ぶれとやり口には、もうウンザリというのが正直なところでしょう。

ですから、積極的な選択としての民主党支持ではありえず、あくまでも私はムードとしての変革であるのだと考えています。民主党が今後どのような政権運営をするのか。民主党政権は、小泉政権の進めた規制緩和と市場主義(新自由主義)の反動からの格差社会を是正することを目的としています。当面は外交問題などよりも、弱者救済、セーフティーネットの拡大、既得権益からの利益再配分、平均的消費拡大による内需拡大とその結果としての経済再生という方向で考えるのだと思います。

それはそれで悪くはありませんが、結局は限られたパイの中での利益再配分ですから、誰もが果実を得られるわけではなく、それに気づいたときには、どこかから反発と反動が生じることは予測されること。国民の圧倒的多数による支持政党というのは、もはやファッショでしかありませんから、それほど民主政権が安泰とも思えない、いずれまた反動が生じるのではないかと考えています。

2009年8月28日金曜日

鴻池朋子展~インタートラベラー 神話と遊ぶ人

東京オペラシティ アートギャラリーで開催されている『鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人』を観て来ました。

今回の展覧会は、鴻池さんの作品を「地球の中心への旅」をテーマに再編成したもの。展示場そのものが、作品を「体験」するような構成になっており、全体が大きなインスタレーション空間であると言えるかも知れません。詳細な説明は、公式HP(→http://www.operacity.jp/ag/exh108/index.html)かtakさんの『弐代目・青い日記帳』をどうぞ(→http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1825)

鴻池さんの作品は、グループ展や絵本、挿絵などで観た事がある程度でして、こうしてまとめて鑑賞させていただくのは初めて。イマジネーションの抱負さには感心します。繰り返し用いられるモチーフの持つ意味とか、ついつい深読みしたくなりそうですが、どうやら鴻池さんの作品に、あまり「深刻」を求めるのは野暮のようです。どうして子供の上半身がないのとか、どうして下半身が人間なのとか。「見えない子供の上半身を見つけようとしてもムダ、それはもともとないのだから」という鴻池さんの挑発。イメージを爆発させるためには、美術館なんか徘徊していちゃダメだと。

何と言ってもテーマが「神話と遊ぶ」なのですから。最初の襖を入り、だんだんと「地球」の奥に入っていくという「体験」は、なかなかスリリングです。彼女の絵本の原画などを観てわき道にそれつつも、だんだんと地底深くに入っていくという、謎めいた体験。次に何がくるのか分からないので、例えは悪いですが「お化け屋敷」のようなワクワク感があるといったら良いでしょうか。

地球の中心の部屋はまさに驚きの一言。入った瞬間に「わぁ!」と声が出てしまいました。こうくるかと。眩暈のしそうな空間。乗り物酔いがある人は気分悪くなるかも、です。私はその芳醇なイメージ世界に思わず見とれてしまいました。ガラスと光の空間は、彼女の他の展覧会写真を見ると、これもよく使うモチーフ。でも使い方一つでこうなるかと。

「地球」というもののなかに、彼女の好きなものをギュっと詰め込んだ展覧会。彼女のエネルギーの一端に、あるいは自らの創造力のパワーに脱帽。彼女は、「ほら、こっちきて遊びなよ」と誘うけど、実は彼女の内実は、創造のステージにおいてはギリギリまで自分を追い詰めているようで、作品の厳しさを見せ方で覆い隠しているような雰囲気は感じましたね。ただ延々と普通に彼女の作品が壁に並んでいると、ちょっとつらいかも、です。

2009年8月26日水曜日

民主党政治に期待できるか?

30日の選挙が近づいてきた。民主党が300議席確保かなどと新聞や週刊誌では予想されている。もはや政権交代は既成事実のような雰囲気さえある中で、自民党の民主党に対するネガティブ・キャンペーンも熱を帯びてきている。「一度でも民主党に政権を渡すと破滅」などと、まるで麻薬か何かのような書き方だ。英ファイナンシャル・タイムズ紙では、日本も一度ギャンブルをしてみては、などと揶揄される始末。

野党の政策を並べてみても、民主、社民、共産、新党日本など、微妙な部分での食い違いはあるため、民主の圧勝という結果は政治風景として望ましいものではなかろう。民主の中でも党員の出身母体から寄り合い所帯という批判もある。しかし、政権を取ればある程度まとまることは期待されようし、逆にその多様性が政策的議論も高まるということもある。

何と言っても、私たちは自民党政権しか経験したことがない。現状の閉塞感から「変革」を求めるムードだけで決定されてしまうことに恐れがないとも言い切れない。政治は対立を含む。対立とは並存する利益団体とそれに属する者たちと属さない者たちとの対立であり、パイが限られているならば利益の再配分を意味する。そういう点において、現在の政治風景は自分たちの利益代表が誰であるのかが見えにくい。地方農民にも都市農民にも、中小企業社員にも大企業社員にも、あるいは子供のいる家庭にもいない家庭にもフィットする政党の存在ということそのものに無理があるように思えます。

2009年8月2日日曜日

ランニング

ランニングもやったりやらなかったりですから、ちっとも走力が付きません。どこかのマラソン大会に出るとかいうよりも「健康維持している気持ち」程度の目的に成り下がってしまいました。これでは湘南マラソン出場を目指している友人や東京マラソンに出ている同僚に「走っている」と自慢することもできません(><)。

しかし気を取り直してマイペースです。今年の夏は梅雨明け以来、あんまり暑くなりません。休日の今日も曇天で、気温もせいぜいが30度程度。早朝というには遅い時間(8時過ぎ)に走ったとしても、ジリジリと太陽に照らされ消耗するということもありません。いつものJ公園を1km6分のペースで5km走り、2分ほどストレッチした後にもう一度5km走ります。あまり暑くありませんから、トラックに行って800m2分走を2分程度のインターバルを置いて3セット。これくらいが今の限界です。

J公園は、石原都知事がこのごろ手を抜いているのか(笑)、烏が増えたような気がします。びっくりするようなデカい烏が梢からこちらを睨んでいます。蝉の鳴き声もひっきりなし、ミンミン蝉よりもアブラ蝉の方が多いかな。公園の人工的な流水はサラサラと涼しげな水音をさせ、野球の試合の歓声が聞こえ、老人たちのゲートボールの姿が見えかくれします。こういう風景を「平和」とか「幸福」というのだろうな、と思いながら走っています。

2009年8月1日土曜日

マニフェスト政治

8月30日の衆議院議員選挙に向けて、各党のマニフェストが出揃いました。今回は「政権選択選挙」なのだという触れ込みで、民主党は悲願の政権奪取に向けて必死です。対する守りの自民も日本を守るのは自民だとばかりに抗戦しています。

マスコミはやたらと対立軸をあおりますが、そもそもが、自民も民主も「誰に向けての政治」であるのかが問題です。自民はかつては農村票を母体としていました。今では農村支持は民主のものでしょうか。都市の浮動票やサラリーマン票を狙うのは自民なのか民主になるのか。

「<国民>の生活を守るのはどの政党か」と麻生首相は問いかけます。格差社会を増長させ経済を疲弊させたという反省と責任は自民にはないかのごときです。しかし<国民>と一言でくくれるほどに、日本は単一ではない。都市住民も居れば、地方住民、農漁村住民も居ます。農民であっても都市近郊農民と稲作農家では全然違う。新富裕層も年収200万円世帯も<国民>。高齢者とか子育て世代、あるいは大企業、中小企業、役人とか自営業とかの軸もある。疲弊した産業には<国民>ではない労働力も注入されている。

各政党は誰の利権を守ることを政策の基本としているのか。逆に言うと、自分の属する枠組みをどこの政党であれば守ってくれるのか。<全国民>が、今よりも更に<利得に与る>社会は目指しようがないことだけは確かか。

<国民>という枠組みが複層的な枠組みの中にあり、それぞれが何らかの「既得権益」を有し恩恵にあずかっている。昨今の派遣切りとかフリーターは、既得権益から完全に排除された人たちといえます。既得権益は時代とか世代により異なり、本人能力を超えた偶発的な要因で決定されることが大きくなってきている。これは不可逆な流れなのか。政権を代えれば流れが変わるのか、漠とした期待はあっても実は誰も分からない。

日本は、そして日本の政治システムは疲弊しているという見方は当たっている。<疲弊から回復した後の日本>をどれだけイメージできるか。ここは観念的ではありますが、もう少しマジメに考えられても良い。