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2003年7月5日土曜日

広上淳一&東京都交響楽団

マックス・レーガ-(1873-1916):ヴァイオリン協奏曲 イ長調 作品101(日本初演)
ストラヴィンスキー:春の祭典

日時:2003年7月4日 17:00~
場所:東京オペラシティコンサートホール
指揮:広上淳一   ヴァイオリン:庄司紗矢香
演奏:東京都交響楽団


マックス・レーガ-(1873-1916):ヴァイオリン協奏曲 イ長調 作品101(日本初演)
ストラヴィンスキー:春の祭典
本日の演奏は本来、指揮者は大野和士氏であったのだが、頚椎捻挫のため広上氏が代役で振ったプログラムだった。大野氏の指揮を期待していた人は残念な思いをされた方も多かったのではなかったろうか。私はひとえに庄司さんのヴァイオリンを聴きたかっただけであったので、指揮者が変わったことに期待も不安もなかったと書いては失礼になるだろうか。

さて、その庄司さんの演奏するのが、日本初演になるというマックス・レーガ-のヴァイオリン協奏曲である。演奏時間が60分という大作だ。CDなどで予習もしていないので、ここで聴くのが始めての曲であった。

一度聴いただけでは、どこに感動を持って行けば良いのか分かりにくい曲であったというのが正直な感想なのだが、思い出すままに書いてみよう。

第一楽章だけで30分もあるのだが、聴いていて旋律線が良く分からない、盛りあがっているのか盛り下がっているのか、うれしいのか、哀しいのか、まるで混沌として夢見るようなフレーズが延々と続く。でも決して不快な音ではない。ゆるやかな波動やうねりのようなものを感じ、深層を漂うがごとき心境になる。はじまりも終わりもなく、精神の表層と奥を行き来するかのような趣さえする中に、ときどき突如とした閃きやパッションが迸る。自分自身、眠いのか覚醒しているのか分からないなかで、庄司さんのヴァオリンの音色だけが綿々と連なっている。

レーガ-はヴィルトオーゾ風の協奏曲を嫌ったらしく、確かに聴いていてヴァイオリン協奏曲というよりはヴァイオリンを伴った交響曲風なつくりではあるのだが、庄司さんの音色はひとときもオーケストラに埋没することなく、何かを唄い続けている。音色は多彩で複雑でそして確かにブラームスを思わせるようにロマン的だ。目をつぶって聴いていると、ほんとうにヴァイオリンを一人の奏者が弾いているのだろうか、という気にさせられる。決してバリバリ弾きまくっているのではないのに、オケをバックにしたこの存在感は何だろうと思わされる。それが曲の構成なのか、あるいは庄司さんの力量なのか。

解説はマックス・レーガ-研究所のスーザンネ・ポップ氏の寄稿によるものだが、「精巧に造られたからみあう蔦のような音形総体」との表現は、聴き終わってみてなるほどと妙な説得力をもちえているように思われた。60分が長いのか短いのか、それさえ分からない。1942年のアメリカの初演では「節度のない量のビールとソーセージ」と酷評されたらしい。

たった一度聴いただけでは、全貌を掴むことはできなかったものの、演奏が終わった後も庄司さんのヴァイオリンが頭の中で鳴りつづけていた。

余談だが、休憩時間中にホワイエで初老の女性が「1楽章のカデンツァは本当に素晴らしかったわね!」と興奮して話しているのが耳に入ってきた。私はそうだったかしらと思い返し、聴衆として未熟なのかと思ってしまった。そういう言い方をするならば、素晴らしかったのはカデンツァだけではなかったのだし。

そんな余韻に浸っていた中で始まったのが春の祭典だ。改めて都響の音色に耳を傾けるなら、響きの重心がかなり低めであることに気づかされる。深みとコクのある音色は独逸ものに強そうな印象を受けた。

さて広上氏の指揮するハルサイであるが、これはレーガ-の雰囲気をまったくかき消すような響きであり、その対比に最初は少なからず違和感と抵抗を覚えたことも否定できない。何と言ってもハルサイである、さもありなんと思い、はてさてこの20世紀の前衛ともいうべき古典を、どう料理してくれるかと期待したのだが、地を蠢き噴き上げる凶暴さを感じはしたものの、予定調和の出来レースのようも聴こえはじめ、妙にまとまった音楽に感じてしまった。そう思って広上氏の指揮を見ていると、前後左右上下に大きく動くその指揮振りも、ダンスを指導する振付師のように見えてきて、鼻白むところもなきにしもあらず。

そうは言っても都響の響きや音量は驚くほど大きく、迫力などの点では全く申し分ないことは認めざるを得ない。オペラシティホールも非常に音響的に優れたホールで、こういう環境で都響が奏でる独逸ものを聴けば、さぞかし壮大なる満足を得るのだろうなと思いながらも、今聴いているのはストラヴィンスキーで、ああ、そうだそうだ、こんな余計なことを考えていたら、あっという間に終わってしまうぞと自分に言い聞かせるのであった。

都響は聴けば聴くほど上手いオケだし、音量がクライマックスのときに、ほんの少し荒れた印象を受けることもあったが、それは曲調のなせるわざなのか。粗さを重心の低さでカバーしているようにも聴こえ、分厚い響きはさすが在京オケだと思うのだが、最後まで何かひとつ充たされずに終わってしまった。

それにつけても思い出すのは、いつ終わるとも知れなかった庄司さんのヴァイオリンなのである。夢の中の深層に(実際眠りそうにもなったし)、サブリミナル効果のように刷り込まれてしまったようだ。聴けるならもう一度聴いてみたいと思いながら。(明日サントリーでまた演奏するらしいが・・・)

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