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2006年5月13日土曜日

武満徹:ノヴェンバー・ステップス/小澤&サイトウ・キネン

武満氏を代表する曲なので随分前に買って聴いてはみたものの、「なんぢゃこりゃ」てな感じで、当時は全く馴染めず、即お蔵入りした盤であります。武満氏の他の曲なども辛抱強く聴くことによって、ようやくこの曲にも慣れてきて、そうしますと曲の持つ特質とか美しさ、そして厳しさが朧気に浮かび上がってくるような気になってきました。

この曲は尺八や琵琶の音色が非常に特徴的ですし、それがオーケストラと掛け合う様も面白いのですが、圧巻は曲後半での、ほとんどカンデンツァと思われるほどの和楽器による独創部分でしょうか。朗々と響き渡る尺八の音色と、バチバチと硬質な音色で弾かれる琵琶は、ある種の懐かしささえ覚えます。自分が尺八奏者となって演奏していることを想像すると、曲の聴き方も変わってきます。結構これは気持ちいいことかもしれない、と。


武満氏は雅楽を聴いたときの驚きを以下のように記しています。


ふつう、音の振幅は横に流されやすいのですが、ここではそれが垂直に動いている。雅楽はいっさいの可測的な時間を阻み、定量的な試みのいっさいを拒んでいたのです。

 これは何だろうか、これが日本なのだろうかと思いましたが、問題はヨーロッパの音楽からすればそれが雑音であるということです。雑音でなければ異質な主張です。そうだとすると、ぼくという日本人がつくる音楽は、これを異質な雑音からちょっとだけ解き放って、もっと異様であるはずの今日の世界性のなかに、ちょっとした音の生け花のように組み上げられるかどうかということなのです。


確かにここには、日本の古典楽器の玄妙なる響きと緊張感があります。音楽は旋律を持って横に流れる事はなく、自律して存在します。決然とそして黙然と立ち上がってくる響きがあり、音の持つ存在感がそれだけで意味を語るかのようです。


音が自律して自己充足的である故に、音と対極にある無音、即ち沈黙も音楽の一部として、その姿を美しくさらすこととなります。それはあたかも、日本画の何も書かれていない地空間のような。何もないことによる美の表現。


音の旋律線と多彩なパレットによって塗り重ねられ説明されるのとは全く違った有り様。これは極めて日本的風景であるとともに、一方で至極イノセントな世界観であると感じます。その日本というローカルな意味を超えたところにあるイノセントさゆえに武満徹は世界性を獲得したと言えるのでしょうか。ここらあたりは、まだよく分かりません。

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