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2002年7月24日水曜日

高木綾子/Souvenir d'Italia



ヴィヴァルディ:フルート協奏曲 作品10 第3番 ニ長調 RV428「ごしきひわ」
マルチェロ:アダージョ~「協奏曲 ニ短調」より
ヴィヴァルディ:フルート協奏曲 作品10 第2番 ト短調 RV439「夜」
チマローザ:アンダンテ~「フルート四重奏曲 第6番」より
ロッシーニ/ブリッチャルディ:「ウィリアム・テル」の主題による幻想曲
ドニゼッティ:序奏とアレグロ
ヴェルディ/ブリッチャルディ:「椿姫」の主題による幻想曲
モリコーネ:ララバイ~映画「荒野の用心棒」より
モリコーネ:ガブリエルズ・オーボエ~映画「ミッション」より
アルビノーニ:アダージョ~「協奏曲ニ短調 作品9の2」より

高木綾子(fl) 新イタリア合奏団
COCQ-83597 (国内版)

高木綾子さんの新譜が出た。これで7枚目である。今回は「イタリア」と題して、イタリアの作曲家のものばかり集めたもの。伴奏は新イタリア合奏団。録音は、イタリアのパドヴァの近くにあるコンタリーニ宮という、美しくそして音響的にも優れた場所で成されている。舞台と共演者は整っている、高木さんと新イタリア合奏団がどのような音楽を奏でてくれるか期待は高まる。

高木綾子といえばJ-Classic界の旗手であるし、レコード会社としても名実ともに実力派として売り出したいところだろう。前回は無伴奏曲ばかりを録音したが、私は驚きをもって受けとめた。今回はどうだろうかと早速購入してみたが、さすが高木綾子というべきか。聴きなれた曲も、そうでない曲も、彼女の深い音色により新たな息吹を与えられたかのよう名演奏だ。録音のせいもあるだろうが、活きの良さとざらついた抵抗感を感じる仕上がりだ(前回も同じことを書いた。音色がざらついているというのではない)。こういう演奏を聴くとジャケットから連想される「お嬢さん芸」とはかけ離れた演奏であると改めて思う(いい加減、この反応は卒業した方が良いな)。

クラシックばかりではなく映画音楽なども並んでいるところは、なるほどなあと感心。クラシックファン以外の客層にも受けるようにという配慮か・・・などと考えるが、偏狭なことは言わない。奏でられる音楽が良ければクラシックだろうがポピュラーだろうが構わない。実はこのモリコーネの2曲がまた良いのだ(^^)

次にもう少し、聴きこんでみた感想を書いてみたい。

最初はマルチェロをはさんで、ヴィヴァルディのフルート協奏曲が並んでいる。ヴィヴァルディといえば「四季」や「調和の霊感」などで有名だが、彼の曲は独特のリズム感と弦楽器の色彩豊かな響きが魅力だと思う。

「ごしきひわ」というのは鳥の鳴き声を模したような音楽だ。フルートの装飾音がさえずりを連想させ躍動感に満ちており美しい。曲の出だしから惹きつけられる、音にふくらみがありキレの良さと天性の明るさを感じる。力感を伴った艶やかな音色は新鮮で生き生きとしており魅力的だ。さっと日が翳るような響きもの変かもなかなかで、表現力豊かだ。

「夜」でも同じような印象を受ける。この曲は最初のアレグロが「お化け」、中間部のラルゴが「眠り」と呼ばれており、夜に起こるさまざまな想念を曲にしたようなものだ。録音のせいかとも思うが、弦楽合奏の低音の響きがバランス的に多少強いと感じる。本当にこんな音を出しているのだろうかと、少し疑問に感じないわけでもない。高木さんの笛は、ここでも力強く響いている。中間部の掛け合いも見事だ。録音にコンタリーニ宮の外の「虫の音」が入りこんでいるが(最初はノイズかと耳を疑ったが)、これまた曲に趣を与えていると言えようか(^^;;

私は、ヴィヴァルディのこの曲をブリュッヘンの古楽器演奏(オリジナル版)で親しんでいた。従って、どちらかというと、今までくすんだ響きの曲として刷り込まれていた。今回、彼女たちの演奏(アムステルダム版)を聴くことで、曲の魅力を再認識した次第である。

本来ならこれは逆のアプローチだ。ふだんはアムステルダム版に親しんでいたところに、ブリュッヘンのオリジナル版を聴いて驚くというのが普通だろう(^^;; それほどにまで古楽器演奏が普及したということか。

オリジナル版とアムステル版のどちらがヴィバルディらしいか、どちらが曲として優れているかということには、今は言及しない。ブリュッヘンの演奏もこれを機会に、久しぶりに聴いてみたが非常に素晴らしいものであった。というか、アムステルダム版とはやはり「別物」である。

「もしかすると、ランパルの演奏よりも良いかもしれない」と感想を漏らす方もいる。そこで、試しにランパルの演奏(66年)を取り出して聴いてみた(家にあることさえ忘れていたよ)。ランパルの演奏は綾子版よりも少しばかりテンポが遅いためか、もったりと聴こえる部分がないでもない。伴奏を比べても、綾子版の新イタリア合奏団の方がシャキシャキした感じで、現代的な響きと言えようか。それが綾子の巧みな笛とのアンサンブルで、絶妙の活きの良さを曲に与えていると思う。もっともランパルはやはりランパルで、例えば「ごしきひわ」の終楽章などは聴き惚れしてしまうのだが。

これも前回書いたことなのだが、わたしは彼女の笛からは、ある種の抵抗感を感じる。例えばモーツアルトなどの古典を聴いても、軽さばかりではなく華麗さの中にもどっしりとした重みを感じる。前作の「Air Bleu」に収録されているマレの《スペインのフォリア》では、冗談を抜きに最初の1音で「ゴリッ!」というのが聞こえたものだ。フレーズのうたい方においては、最初からポーンと出るのではなく、中間で膨らませるような傾向が聞こえなくもない。古典を聴く場合においては、装飾の入れ方に趣味が分かれるかもしれない。逆にそれがにアヤコ節であり、彼女の魅力の一端であるのかとも思うが。

ロッシーニやヴェルディの曲を聴く限りにおいては、そのような奏法が非常に曲にマッチしているようにも思える。劇的であり、そしてフルートの名人芸を発揮させるために編曲されたこれらの曲だが、むしろあざとさを感じさせないくらいである。チマローザやマルチェロなどの有名な曲も、彼女独特の響きでうたうように聴かせてくれているようだ。

ドニゼッティの序奏とアレグロは、フルート吹き以外には馴染みが余りないかもしれない。わたしは、この曲をずいぶん前に、少しばかり練習したことがあるのだが、彼女の演奏を聴いて「こんな曲だったのか!」と思いを新たにした。ドニゼッティのこの曲も軽快にして軽やかな曲だが、さらに羽を生やしたかのような演奏は、非常に心地よい思いがする。

モリコーネの曲においても、アヤコ節が存分に聴かれる。こういうメロディアスな曲においてはアヤコ節がぴったりとはまる。音色の深さと太さも十分に堪能できる演奏に仕上がっていると思う。この2曲を聴いて思ったが、彼女の音の肌触りは、やはり独特だと。

数日に分けて書いたので、支離滅裂で、わけのわからないことを書いてしまったが、十分に楽しめるCDに仕上がっていると思う。彼女の笛には改めて目を見張り、彼女の求める地平がどこにあるのかと、ふと考えてしまうのであった。日本コロンビアの岡野博行さんが高木綾子「イタリア」録音レポートをウエブで公開している。CDと合わせて参照すると興味がつきない。ていうか、うらやましい仕事だなあ・・・と、岡野さんのサイトを眺めていて思うのであったよ。

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