2013年4月30日火曜日

牧野邦夫展 練馬区立美術館



レンブラントを師と仰ぐというが、画風はレンブラントではない。日本の土着性や土俗性を土台にボス風味を混ぜた日本西洋絵画のような。
1966年の渡欧の頃から絵の方向性が定まり始めたようだが、この作品が1980年代の日本で描かれていたということに若干の驚きを感じる。
おそらくはその時代は、この絵を評価しなかったであろう。時代は彼の絵を、いったんは置き去りに、そして追い越したフリをしていた時期であったのではないか。
彼の指向は土俗的な日本とドラクロア以前の写実主義的な技法によりどころがあり、芥川やら宮沢らの文学的な幻想性の境界を彷徨っていたのだから、上昇気運の日本から置き去りにされたとしても不思議はない。
繰り返し描かれる自画像は、自己愛というよりは時代に拮抗して自らの立ち位置を確認するための孤独な自己確認の作業であったように思える。画面の向こうのまなざしは一体何を見つめていたいたか。
絵に登場する邪保や怪物など、彼を取り巻く環境はねじれて現実世界と遊離している。
彼の描く裸婦は、頭が小さくウェストがくびれた筋肉質な女性だが、西欧的とも言えないような日本的な裸婦像は、青白い血管が素肌に浮き出るかのようで妖しく輝き異様な迫力がある。エロとグロと耽美と欲望。

技量的には、例えば雀の絵など、十分に静謐な画面を構成できうる、すなわち、「売り物」になる絵を描くことができたにも関わらず商業的なものにも背を向けて、ひたすらに自らが描きたい世界を自由奔放に描き切ったと言え、画家的には幸せな人生であったと想像する。
彼が描く、一見まともな肖像画にしても、描かれる人物の内面からら隠された邪気が現れいているようで、正視することが耐えにくい。
彼の引きずった西欧的な魑魅魍魎どもと日本の土着性に根差した怪異なもの。画家はそれらを通じて60年代から80年代の日本の中で、何を見据えていたのか。
いや失われつつある何かを確実に表現していたということか。描き込み、塗り重ねることでしか表現することのできなかった、日本の重さと実像のようなものを。

(初期のメモ)
今の絵画はよくわからない
写実が深い
写実の技量があって、その上で好きなことをやっている

濃密さ
混沌
暗さ
裏側
何かに憑かれたような
見えないものが見えていて
化け物に囲まれた自我
捻れた机、平然とした自己

現実の裏側
静謐さの中の猥雑さ
内面
溢れてくるエゴ
隠しきれない欲求