2013年12月14日土曜日

観世流 緑泉会 喜多能楽堂



観世流緑泉会のによる能を観劇。
能は初めて。
狂言は楽しめるが、能を楽しむにはハードル高いと思わされた。


2013年12月11日水曜日

アンドレアス・シュタイアー&佐藤俊介 トッパンホール 2013/12/11

トッパンホールでアンドレアス・シュタイアーの演奏を聴いてきました。ヴァイオリニストの佐藤俊介さんとのモーツアルト特集です。

  • フォルテピアノ:アンドレアス・シュタイアー
  • ヴァイオリン:佐藤俊介
  1. モーツァルト:フォルテピアノとヴァイオリンのためのソナタ ハ長調 K303(293c)
  2. モーツァルト:フォルテピアノ・ソナタ第8番 イ短調 K310(300d)
  3. モーツァルト:フォルテピアノとヴァイオリンのためのソナタ ホ短調 K304(300c)
  4. モーツァルト:「ああ、私は恋人を失った」の主題による6つの変奏曲 ト短調 K360(374b)
  5. モーツァルト:フォルテピアノとヴァイオリンのためのソナタ ニ長調 K306(300l)

フォルテピアノを実演で聴くのは初めてです。印象としては、意外と音が「小さい」なと、ダイナミクスの表現はチェンバロに比べて広いけれども、それでもピアノとは異なる楽器だと思いました。

シュタイアー氏のピアノは繊細にして切れ味よく、また軽やかで小気味よく、それでいて深い、空気まで弾ききるような感じです。K310の疾走感は悲しみに走りすぎずに節度ある演奏に思えました。しかしそのスピード感は尋常ではなく、モーツァルトの音階とアルペジオの連綿たる連なりがひとつの世界を構築していきます。

逆に佐藤氏のヴァイオリンには乗りきれない思いが残りました。

私の感想とは逆に、ネットでは二人の呼吸があっていたとの感想も多く好意的なようです、アンサンブルでの合いかたも初めて共演するとは思えないほど、との評価もみかけました。

佐藤氏はバロックヴァイオリンを使っていたのですが、どうも音程や音と音の移り変わりに不安定さとか甘さを感じ、それがシュタイアー氏の鮮烈なる音列に対し若干の違和感として聞こえる。なんというか、歌い方が「田舎くさい」というか。そう思って聴いてしまうと、もういけない。私の耳が悪いのでしょうか、佐藤さんすみません。

シュタイアー氏のフォルテ・ピアノやチェンバロは、機会があればまた聴いてみたいと思わせるものでした。

2013年12月7日土曜日

ターナー展@東京都美術館

ターナー、高校時代に一番好きだった画家の一人。
やはり、圧倒的。解説も言葉も不要。


2013年11月21日木曜日

エンリコ・ガッティ @白寿ホール コレッリ

エンリコ・ガッティ(バロック・ヴァイオリン) Enrico Gatti - baroque violin
グイード・モリーニ(チェンバロ) Guido Morini - harpshichord
曲目 未発表コレッリ 
THE UNKNOWN CORELLI  From the 12 unpublished sonatas in the Assisi manuscript    

  • ソナタ 第1番 ニ長調    
  • ソナタ 第2番 イ長調    
  • ソナタ 第3番 ニ短調    
  • ソナタ 第5番 イ短調    
  • ソナタ 第6番 ト長調    
  • ソナタ anh.34 ニ長調    
  • ソナタ 第7番 ヘ長調    
  • ソナタ 第8番 ハ短調    
  • ソナタ 第9番 変ロ長調    
  • ソナタ 第10番 ト短調    
  • ソナタ 第11番 ホ長調    
  • ソナタ 第12番 イ長調    
  • ソナタ anh.33 イ長調    
  • ソナタ anh.35 イ短調

すばらしいの一言、充実の音楽。コレッリの初期作品が、こんなにも豊かに響くのだとは。








2013年11月14日木曜日

2013/11/14 —遠い風景—第10回 永野一久 テンペラ画展

—遠い風景—第10回 永野一久 テンペラ画展

東武池袋でたまたま観たテンペラの細密画
自分の画風を変えないこと
それで「売れる」
先鋭性を求めないアート作品
所有する喜びとか見続ける快楽とか
そういうものも、あってもいい
現代美術や先端の芸術家のように、常に尖鋭的である必要はない



以下は個展の解説の抜粋
■11/14(木)~20(水)
※最終日は午後4時30分閉場
■6F 1番地 絵画サロン

西洋の古典技法である金箔を用いてテンペラ画を描く、日本では数少ない画家・永野一久氏が、第10回目の個展を開催いたします。
変わりゆく日本の象徴的俯瞰として、細密に描かれた懐かしい里山の風景。大空を自由に漂うトンボが降り立つ民家、廃屋を思わせる隠れ家に、ささやかな夢や希望に満ちた記憶が甦ります。
風景の中に音楽を重ね、思いを巡らすように、いつの日か奏でる楽器が登場する立体の木工細工など、新たな展開を予感させる新作20余点を展観。

《永野一久 略歴》
1949年 熊本県に生まれる
1974年 東京造形大学卒業
1989年 カナダ国際ミニアチュール展、セントラル美術館油絵大賞展
1990年 上野の森美術館油絵大賞展、伊藤廉記念賞展
1991年 セントラル美術館油絵大賞展
2004年 池袋東武にて個展(〜'12年)
・その他、銀座、表参道、吉祥寺、大阪、熊本にて個展・グループ展多数
・現在、宝仙学園短期大学芸術学科にてテンペラ技法を指導

●「水車小屋」34.4×55.0cm・・・504,000円

●「遠い里山」33.3×33.3cm・・・294,000円

●「幸せの鳥」23.4×17.3cm・・・152,250円

2013年10月28日月曜日

諏訪敦 「満ち欠けをかぞえる」成山画廊

タブロー1点とドローイング2点のささやかな展示、成山画廊にて。

とりあえず、この作品を見るために成山画廊まで行ってきました。
息の詰まりそうな画廊の中で、遠いところを見ているような女性の目力に、多少気圧される感覚でした。







2013年10月23日水曜日

この国はどこで間違えたのか 寺島 佐高

2013/10/23 この国はどこで間違えたのか 寺島 佐高

日本の歴史認識
独り立ちできない
成熟しなかった団塊の世代
世代として次の世代に何かを残す責任
冷戦後の日本の立ち位置
ドイツはアメリカとの関係を見直した
自由主義、市場経済の資本主義の限界
哲学の必要性
揺り戻し
アジアからの視点
幼稚な政治家しか生み出さなかった
個としての独立
アメリカの責任追及
原発のGEとか
対米追従という思考停止
表面的な右傾化、愛国心
歴史に学ぶこと
石橋湛山
魯迅
江藤淳


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2013年10月14日月曜日

WOOL読了

WOOL読了

ハリウッド的
エイリアン的ヒロイン
描写は少しくどい
空間認識が少し狂っている
ヒマ潰しにはいい

続編読むかは微妙

2013年10月5日土曜日

山種美術館 速水御舟



速水御舟については今更言及するのも憚られます。
山種美術館の展覧会にちなんだ、和菓子も素晴らしいものでした。
山種美術館は、落ち着いた雰囲気の空間で、その安定感から、行くたびに癒される思いです。




2013年9月28日土曜日

蟻鱒鳶ル 2013年

東京三田にある「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」です。



ときどき見に来ているのですけど、なかなか工事が進まないですね。



造る行為そのものに意味があるような建物ですから、造ることそのものが目的化、永遠に作り続けることが命題化されているのでしょうか。

 


2013年8月25日日曜日

ルーブル美術館展 東京都美術館

200点を超える作品、4000年を超える歴史。
もう、おなかいっぱいです。


2013年8月16日金曜日

高村薫:太陽を曳く馬を読了はしたものの

読了とはいうものの、内容のほとんどは意味不明、理解不能
ひたすらに問い続ける小説。高村氏自信が問い続けること、その答えを求めるためには膨大な言葉を連ねるしかないということ。

仏教もしかり、オウムもしかり。その中での仏教論、認識論などなど
現代でそのような形而上的な問題を問う意味があるのか、ということに真っ向から反抗し立ち向かう。


2013年8月3日土曜日

村上春樹 1Q84 読了

amazonの評価を読むと、賛否両論というか、否定的な意見が多い。
批判者はあまり、文学に親しんでおらず、たまたまベストセラーだから始めて読んだみたいな人も含まれているようである。

村上作品は、決してわかりやすくないし、面白くもない。
自分勝手で日現実的なキャラも共通。
意味深なような謎掛けはあるものの全くの解決はなく。
ノルウェーの森に見られた性描写はここでさらに枠を拡げる。
何を書きたいのか?と疑問をつける人も多かろうが、多義的な世界を書いていることは確か。
しかし、最初のクールな青豆のイメージがだんだん幼稚になっていった、という感想は一理あると思うとともに、女から母親になったことによる変化ととらえてもいいのかも。
あくまでも男性視点あることは否定しない。
20年前との幼なじみが再び出会うなんてロマンとも思えないような妄想を小説の一つのテーマと大団円に据えることそのものが、歪で現実感も生活感も伴わない設定に思える。
天呉のあくまでも社会性のない、ナルシスてィゥクな受け身なキャラ、そのままの印象。
読んでいて、村上小説の世界観やキャラ設定を理解できない人には、つまらない以上に、嫌悪さえ覚えると思う。

しかし、ここに描かれた、ある種の回復できない喪失感と再生への期待とか、より困難な世界に立ち向かうスタンスとかは、ひとつの村上的な理想を示しているかもだ。あくまでもロマンとして。
この程度のロマンも許さないのならば、世の小説のほとんどはゴミ箱行だ。
宗教に対する認識の薄さは、ちょっと目に余るのだけど、宗教を信じていない、あるいは批判精神もない人に、オウム的なもののありようとかを使ってはもらいたくなかったね。

読み切ってはいないが、高村薫の太陽が曵く馬の難解さと深さに比べると、恥ずかしくなるほど。

エンタメと考えれば楽しめないこともなかったよ。


2013年7月15日月曜日

村上春樹の1Q84を読んでのメモ

これで完結している
純愛
欠落
空白
喪失
欠落
そういうものを埋めるもの
月の多義性
表と裏
失われた分身
性の意味
孤独
人が生きるということ
何を求めているのか
心の問題
精神
宗教的なもの
それを必要とする人としない人

喪失と再生の物語
失うということ

リトルピープルとは?
良きもの?
啓示を与える
ただ犯す、壊す存在ではない
自分探しの旅
淡いロマン
あるいは幻想

アドベンチャー
小説としての面白さ
謎は謎のまま

説明しないとわからないものは説明してもわからない
最初から説明的なものを拒否

小説の入れ子構造。

2013年7月6日土曜日

大野和士指揮 新日本フィル ブルックナー7番

2013年7月5日(金)19時15分
すみだトリフォニーホール
指揮 大野和士
新日本フィルハーモニー交響楽団



シャリーノ/「夜の肖像」(1982年)
ツィンマーマン/「ユビュ王の晩餐のための音楽」(1966年)
ブルックナー/交響曲第7番 ホ長調(ノーヴァク版、1954年)


ワーグナー生誕200年を記念したプログラムなのだが、ワーグナーは一曲も演奏しない。大野氏がこだわりぬいたプログラムとはいえ、ひねり過ぎの感がなきにしもあらず。

シャリーノはバイオリンのフラジオレットの上に、静かな音か薄膜のようにかぶさる10分程度の曲。無調?という点ではワーグナーにつながるか。

ツィンマーマンもメジャーな曲ではない。バイオリン、チェロなどの弦が入らず、逆にオルガンやギター、ピアノ、ハープ、エレキギターなどの楽器が加わる。いろいろな曲からの引用が展開されるが、期待させたほどには乗り切れない。最後の乱痴気騒ぎのような場面(幻想の暖断頭台への行進とワルキューレが奏されるところ)も浮ついた印象だけを残す。

オモチャ箱をひっくり返したような感じ、という点では、むしろマーラーにテイストが近いように思える。

休憩をはさんでの今回のメインとなるブルックナー7番。大野氏の指揮は、過大な感情は移入せず、速めの軽快なテンポで曲を進める。盛り上がるところもしっかり音量はあり、目立った大きな破綻もない。少し雑と聴こえるところや、ブルックナー的な音の重奏感が不足しているように思え部分がなきにしもあらず、聴く場所が2階席であったせいだろうか。

しかしながら、どこか不完全燃焼の残るプログラムと演奏であったことも確か。私が聴いたのはワーグナーの息吹だったのか、正真のブルックナーだったのかと自問。


それでも、この手の音楽は生で聴くのに限ると思う。現代音楽は、聴き方や集中力が異なるから、組み合わせは別の曲が望ましいと思った次第。情よりも理が勝ったプログラムであったか。

2013年7月2日火曜日

東京ー元田久治 アートフロントギャラリー 代官山

見慣れた風景が、地震や洪水、あるいはその他の外的な要因で崩壊し、人間が不在となった世界を描く。

というと、暗くネガティブな印象を受けるが、実際に作品に接した時には、むしろ暴力的な印象よりも、静謐感や哀しみとともに沸き起こる懐かしさを感じる。

それは、リトグラフという技法のもつ肌合いや温かさ、そして昏さゆえなのだろうか。作品は大きく、図録や写真から受ける印象程に画面は細緻でない点も、実物を見て初めて確認できた。

見慣れた風景の中に生じる違和感とか、歪み。そして引き伸ばされた時間。画面の中では空間も時間も歪められている。破壊やカタストロフに主題があるのではなく、その後の置き忘れられた時間がつくる、廃墟のみが有する穏やかな荒廃というゆるやかな時間の歩み。

廃墟に植物をからめることで、さらに人間の時間軸から離れた永遠と新たな生命感、再生を感じる。

それが、いかなる再生なのかは示されていないけれども。


2013年7月1日月曜日

本日でGoogle Readerのサービス終了

7月1日をもってGoogle Readerがサービスを終了する。


IT Techなど幾つかの記事にもあるように、情報収集ツールとしてRSSが役割を終えたということだろうか。

ニュースフィードを集めるという役割、それらはTwitterやFacebookなどの、ストリーム情報にとってかわられたことになっている。知り合いやフォローする人がすすめる情報の方が、生な信頼できる情報であるということなのか。

分からないでもないが、そうであっても自分的にはネットから得られる情報源は相変わらずRSSが中心であり続けている。私はもう少々RSSに付き合わなくてはならない。

2013年6月22日土曜日

文化センター ヴェルディ生誕200周年記念 三ツ橋敬子+東京交響楽団 ヴェルディ「レクイエム」

指揮:三ツ橋敬子
独唱:藤田美奈子、中島郁子、村上敏明、須藤慎吾
管弦楽:東京交響楽団
合唱:新宿文化センター合唱団
合唱指導:山神健志




新宿文化センター合唱団は、この演奏会のために結成された合唱団。はじめて行くホールだが、地方の文化会館のような雰囲気。本格的なクラシックを聴くには音響的に少し厳しい、長時間聴いていて疲れる。それであってもベルディのレクイエムのような音楽は生演奏に限ると思った次第。「レクイエム」ではあるが、随所にベルディ節が感じられ、それはそれで満足。テノールの村上敏明さんは、ハリといい声のツヤといい素晴らしかったですね。


個人的には、久しぶりのオケを伴うコンサートであったし、東京交響楽団であったので、そこそこ満足していたが、一緒に行ったI氏の演奏後の感想は、ひとこと「ママさん合唱では、これが限界。合唱が薄い。」というもの。

今日も合唱が弱い
ママさん合唱の限界
ソプラノがお水系
オケが入らないところでズレまくって
カルテットが狂ったまま
そこにオケがかぶさるみたいな感じで
ホールも市民会館レベル
音が硬く疲れる、響く

みたいな感想。それでも東京交響楽団はブルックナーとかやっているからまだ鍛えられている。指揮者に対しては何もなし。

ちょっと厳しいか。


久しぶりにディープなクラシックファンとの演奏会であったので、多少複雑な思いで会場を後にした。






2013年6月9日日曜日

映画:プロメテウスをiTunesで

プロメテウスをiTunesで

リドリー・スコット監督、iTunesより500円レンタル

期待したが、ほとんど「エイリアン」
ストーリーも、突っ込みどころ満載で雑
深みもない
ただのエンタメ
女性の圧倒的な強さと生存能力の高さも「エイリアン」級

デヴィット・リンチとよく監督間違えるけど
スコットは単純なんだね、映画が。


2013年5月26日日曜日

フランシス・ベーコン展 東京国立近代美術館






ラファエロ展 国立西洋美術館

予想はしていたものの、すごい混み方にかなりウンザリ。会場に入る前から、ラファエロ、それほど好きではないし、みたいな負けモード。

ラファエロは素描などを含めて20点くらい。画集が小さくて高いのには驚く。




2013年5月13日月曜日

2013/05/13 山口晃展 付り澱エンナーレ@そごう美術館(横浜)



★以下は個人的なメモです。作家さんを敬称なしでの表記はお許し下さい。


今まで何度か見た絵も多い。

特に初期の三越とか六本木の絵など

練馬美術館で見ているものも多い


銀座画廊でやった、東京俯瞰図は今でも描き込みが増えているのだろうか?


付り澱エンナーレの展示は上野の美術館で見て以来だが

彼が、いちおうは現代美術作家であることを思い出させてくれた


今回の圧巻は、ドナルド・キーン氏の本の挿絵だろうか

こういうチマチマ感とマンガはうまい

親鸞はイマイチな印象

こういうイラストを五木寛之氏が許していたか


総じて、会田誠と比べても仕方ないが

彼の絵にはユーモアを通じた若干の批判精神はあるが

毒ではなく

強烈な会田の個性と才能とは対極にあるような


会田も確かに絵がうまいと感じたが

山口の前ではうまさが彼の技量として確立できていないというか

彼の実態を表すのは現れた画にあるのではなく、

いかようにも変化自在な

(いちおう技術に裏付けられた)表現のパフォーマンスであるということ

会田の実態は絵がすべてみたいな

2013年5月12日日曜日

日曜美術館 フランシス・ベーコン

日曜美術館 フランシス・ベーコンを観てのメモ。

大江健三郎氏とか浅田彰氏とかが解説している
大江氏が真面目な顔して、
「ぼくは、こういう絵は美しいと思う」
と解説する。
何か、どこか、ズレているような

2013年5月6日月曜日

グーグルで必要なことは、みんなソニーが教えてくれた 辻野晃一郎

辻野晃一郎
1957年 生まれ
1984年(25歳)慶應義塾大学大学院工学研究科修了
1984年(25歳)ソニー入社
2006年(49歳)ソニー退社
2007年(50歳)Google入社
2009年(52歳)Google日本法人代表取締役社長
2010年(53歳)Google退社

Googleを辞めたいきさつが良くわからない。
激務の3年間で、2010年になってGoogleの体制見直しの中で日本法人社長が廃止になったのを機に辞めたような書きぶり。
むしろ、辻野氏のやり方というか、マネジメントの仕方がGoogleに合わなかったのではないかという気がする。
あくまでも印象だが。
業績不振のグループをどうやってモチベーション高めて、目標に向けてベクトルを合わせるか、みたいなやり方。
Sonyの事業部やカンパニーでやったやり方。
強力なトップが意思をもってひっぱる。まさにリーダーとしての役割だろうけど、批判も多かろう。
それぞれの組織のリーダーとなった時に、辻野氏が発してきた数々のメッセージについては共感すべきものも多い。
彼のやり方が良いかどうかは別として、組織をまとめて結果を出すという、リーダーに与えられた役割という点では学ぶものが多い。
何かのリーダーになったら、その部位だけ切り出してきて使えるかもしれない。
彼のやり方が社内で相当に摩擦を起こしていたであろうことはあるにしても。
思い入れがが強いだけに、業務温度が高いだろうし。

しかし、ビジネスにおいて結果を出すということは、稲盛氏にしても、そういうことか。
振り返ってみると、生産計画部はビジネスではない、事業でもない。すなわち結果責任も成果もない。
ここが問題なのではないか。
というのが、ファーストインプレッションで感じたこと。

組織の枠にとらわれない生き方。
組織は肥大化すると内部に向かっての非生産的な仕事に費やす時間が多くなる。
これではスピードに対応できない。


(ファーストインプレッション)
SONYのダメさ加減のわかる本
普通の企業と同じになってしまっていた

2013年5月2日木曜日

迷い迷って渋谷駅 田村圭介

1970年生まれ
早稲田建築出身
昭和女子大 准教授

渋谷への想いが強すぎて、少し鼻につく
二つのリングにしても、だから何それ?みたいな。
図が小さくて薄くて、建築のデザイン屋にありがちなセンス
文書もやたらと権威的なものからの引用やら、複雑難解なものからの敷衍など、これもコンセプト好きな建築屋な見られる傾向
ああ、こういうところが私はキライだったんだと思い出させてくれる。
渋谷の不思議は、素直に成立過程を図面に大きく表してくれれば、それでいいのに。やたら自分の理論に持って行こうとして、一般読者のことをあんまり考えていない。
x軸だの第ニ象限だの、お笑いか、わざわざ難しくするなよ。
大学のセンセイだから仕方ないか。

2013年5月1日水曜日

アントニオ・ロペス展 Bunkamura ザ・ミュージアム

アントニオ・ロペス・ガルシア
スペインリアリズム絵画の巨匠
現代のリアリズム画家の中で、最も私が尊敬、畏敬する画家。

彼であっても、画業の最初からリアリズムではなかったことに、軽い驚き。

圧倒的な大きさの絵の前では、ただ呆然と佇むのみ。描かれたものは、あるひとときの風景であるのに、そこに流れる悠久の時間。



 

2013年4月30日火曜日

牧野邦夫展 練馬区立美術館



レンブラントを師と仰ぐというが、画風はレンブラントではない。日本の土着性や土俗性を土台にボス風味を混ぜた日本西洋絵画のような。

2013年4月21日日曜日

2013年4月11日木曜日

2013年3月31日日曜日

カボックを描いてみました

カボックを描いてみました。


長年育てていますが、花が咲いたのは初めてです。

2013年3月22日金曜日

会田誠展 六本木アートミュージアム

展覧会を観てのメモ。
それにしても、会田誠が六本木とはいえ、美術館で個展をやるほどにメジャーというか、世間に受容されるとは!

(以下、まとまらない雑感)

欲望と混沌の批判精神
過剰さ
エロ、グロ
明るさ、能天気、快楽でありながらストイック

圧倒的な画力、大きさとエネルギー

批判と
考えない人ということ
徹底的な自虐
幼児性と大人の表情

圧倒的な孤独と孤高。
でありつつの迎合に見える表出。

権威とか上司への挑戦
爆発、表現せずにはいられない衝動

こうして並び連ねると
芸術家であれば誰もが持つ素養

しかし、会田誠を会田誠をたらしめているのは、その過剰さと混沌。まさに歯止めを失った現代日本の表象か。
日本の膿とか上澄みが澱のように凝固して作品として結実する。

あるときは、シリアスに、あるときは目を覆うばかりの表現として。

偽悪的でありながらに純粋。

見るものの隠れた何かを刺激する。

2013年3月15日金曜日

松井冬子 「散逸」展 成山画廊

松井冬子「散逸」展
2013年1月19日(土)~3月16日(土)
13:00 ~19:00 水・日・祝祭日休廊
成山画廊

成山画廊という小さく、非常に私的な空間のせいか、内面的で本来秘匿されている「見てはいけないもの」を見せられているような気持ちにさせられる。







2013年2月27日水曜日

高村薫:作家的時評集2000~2007

amazonのレビュウで「高村薫氏の評論だが字数が少なく、意味がない」みたいな評価があった。

最初読み進むうちは、否定的な意見だと思ったものの、後半に至り、確かに薄い文章の連続では、問題意識の提起で終わっており、これではいかがなものかと思ったことも確か。
しかし、「新リア王」を書いたのが、団塊の世代として次の世代に、その知識その他を継承できなかったこと、後の世代から、日本語というか考えるための言葉とか文章というものが失われてしまい、せめて作家の役目として、あるいは矜持として、多少難解な文章をしたためる必要があった、との意識は理解できる。

まさに私が「新リア王」の書評を、どう書いてよいかわからずながらも、彼女の文章の蓄積でしか表せない事柄があると考えたことは、的外れではなかった。
複雑なものを複雑なままに提示するとかいうこと。そのための文章。複雑な思考は複雑な文章でなくては表現できないということ。

世の中は、ともするとシンプルに分かりやすくと言われている。難しいことをやさしく解説することが、評価されもてはやされる。それは、一面で鮮やかであり、目の前のモヤモヤも晴らしてはくれるのだけど、それによって失われたものも多いということ。
こうかいて、いわゆる、これがアナログとデジタル世代の差なのかと思い至った。1と2の割り切りというほどに単純ではないが、いわゆるCDのサンプリングレート技術にしても、ある音域をカットすることによって失われた「何か」。とか。

彼女が極めて「政治」に傾倒していった様子もよく分かる文章であり、また当時の状況と現在の第二次安倍内閣の勢いを見るにつけ、あの当時と今で一体何が変わっているのか、安倍氏は本当に信頼するに足りる人材に変わったのか、考えざるを得ない。彼女が問題視していた憲法、原発問題にしてもだ。

日本の状況は相変わらず好転はしていないし、その根本原因は経済よりも政治にあり、その政治の原因を作っているのは、ほかならぬ国民なのではないか、との思いも強くする。
彼女が、小泉内閣の郵政解散の後の選挙結果を見て「自分が少数派であることを知った」との認識は、共感するとかいう以上に、彼女を支持する者として複雑な思いである。
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政治とは複雑なものであるのに、それを単純なワンフレーズ政治、簡単なキャッチ、劇場型にしたのは小泉首相であったかもしれないが、それを望んでいたのは国民であったともいえる。テレビがどんどん低俗化していき、視聴者の反応までを先取りするかのようなテロップが流れる番組が増えたのも、それを見る視聴者のレベルが下がっているからか。あるいは、どちらも国民や視聴者を蔑視したりレベルが低いとしている目線から生まれたのか。どちらであったにせよ、それが受容されている事実からは、国民の知的レベルが低下していることは否定できない。高村氏が、あと数年すると、いまの文章さえ読めない若者が増えるのではないかという懸念は、おそらく正しい。ネットやTwitter、Facebookでのコミュニケーションは、そのような風潮を助長する方向にある。

このようなことを考える派が少数派であること。
たまに営業のマネごとをして、夜の街に繰り出してみれば、得意先も社員も、どうしてしまったのだろうという呆け方、享楽の仕方。歯止めが失われ、品性も品格の欠片さえも見いだせない。こんな世界で、この先生きていくのかということまでをも考えざるを得ない。





2013年2月4日月曜日

市川團十郎も逝去!!66歳

市川團十郎も逝去!!66歳

歌舞伎座など建て替えないで、18代目や12代目の演目を、ひとつでも多く、伝統と伝説の昭和の歌舞伎座でやって欲しかった。合掌。この喪失感たるや!


2013年1月5日土曜日

世界の経営学者はいま何を考えているか 入山章栄

ちきりん推薦ということで

世界の経営学者の前線の紹介だが
それでも問う
経営は科学とか学問なのか
統計的に処理された理論だったり論理だっりするのか
カンに頼る経営は危ない
しかし、ここで研究されている学問が経営の実務に役に立つとかの疑問は残る

こういう分野も必要とは思うが、金融業が、高等数学を用いることで、違った方向に行ってしまったことと、どこか似ている気がする。