2013年2月27日水曜日

高村薫:作家的時評集2000~2007

amazonのレビュウで「高村薫氏の評論だが字数が少なく、意味がない」みたいな評価があった。

最初読み進むうちは、否定的な意見だと思ったものの、後半に至り、確かに薄い文章の連続では、問題意識の提起で終わっており、これではいかがなものかと思ったことも確か。
しかし、「新リア王」を書いたのが、団塊の世代として次の世代に、その知識その他を継承できなかったこと、後の世代から、日本語というか考えるための言葉とか文章というものが失われてしまい、せめて作家の役目として、あるいは矜持として、多少難解な文章をしたためる必要があった、との意識は理解できる。

まさに私が「新リア王」の書評を、どう書いてよいかわからずながらも、彼女の文章の蓄積でしか表せない事柄があると考えたことは、的外れではなかった。
複雑なものを複雑なままに提示するとかいうこと。そのための文章。複雑な思考は複雑な文章でなくては表現できないということ。

世の中は、ともするとシンプルに分かりやすくと言われている。難しいことをやさしく解説することが、評価されもてはやされる。それは、一面で鮮やかであり、目の前のモヤモヤも晴らしてはくれるのだけど、それによって失われたものも多いということ。
こうかいて、いわゆる、これがアナログとデジタル世代の差なのかと思い至った。1と2の割り切りというほどに単純ではないが、いわゆるCDのサンプリングレート技術にしても、ある音域をカットすることによって失われた「何か」。とか。

彼女が極めて「政治」に傾倒していった様子もよく分かる文章であり、また当時の状況と現在の第二次安倍内閣の勢いを見るにつけ、あの当時と今で一体何が変わっているのか、安倍氏は本当に信頼するに足りる人材に変わったのか、考えざるを得ない。彼女が問題視していた憲法、原発問題にしてもだ。

日本の状況は相変わらず好転はしていないし、その根本原因は経済よりも政治にあり、その政治の原因を作っているのは、ほかならぬ国民なのではないか、との思いも強くする。
彼女が、小泉内閣の郵政解散の後の選挙結果を見て「自分が少数派であることを知った」との認識は、共感するとかいう以上に、彼女を支持する者として複雑な思いである。
-------------
政治とは複雑なものであるのに、それを単純なワンフレーズ政治、簡単なキャッチ、劇場型にしたのは小泉首相であったかもしれないが、それを望んでいたのは国民であったともいえる。テレビがどんどん低俗化していき、視聴者の反応までを先取りするかのようなテロップが流れる番組が増えたのも、それを見る視聴者のレベルが下がっているからか。あるいは、どちらも国民や視聴者を蔑視したりレベルが低いとしている目線から生まれたのか。どちらであったにせよ、それが受容されている事実からは、国民の知的レベルが低下していることは否定できない。高村氏が、あと数年すると、いまの文章さえ読めない若者が増えるのではないかという懸念は、おそらく正しい。ネットやTwitter、Facebookでのコミュニケーションは、そのような風潮を助長する方向にある。

このようなことを考える派が少数派であること。
たまに営業のマネごとをして、夜の街に繰り出してみれば、得意先も社員も、どうしてしまったのだろうという呆け方、享楽の仕方。歯止めが失われ、品性も品格の欠片さえも見いだせない。こんな世界で、この先生きていくのかということまでをも考えざるを得ない。