2005年6月2日木曜日

歌舞伎役者が演じるから歌舞伎

「野田版研辰の討たれ」が賛否両論であり、私の中でも評価が分かれている事は以前書きました。戸板康二の「続歌舞伎への招待」も読了し、通勤電車の中とかトイレの中とかであれこれ考えているんですが、考えはまとまりません。




ひだまりのお話しというブログで、4回にわたり劇話「歌舞伎の今日性『研辰の討たれ』とするエントリが掲載されていました。歌舞伎とオペラのありようなど比較しながらの論は興味深く拝読しました。


タイムマシンでもなければ体験できない200年前の芝居小

屋の雑然として猥雑なアナーキーさこそがエネルギーの根源

だっただろうと想像されるかつての歌舞伎のような公演が、

今月の『研辰』であったことは疑いようがない。



これは第1回目のエントリです。歌舞伎のもつ猥雑なアナーキーさは歌舞伎成立史を考慮するとその通りなのですが、歌舞伎としてのエッセンスは一体どこにあるのか、どこまでが歌舞伎として許容されるのかということが、私の最大の関心事でありまして。なぜならば、この点をはずしてしまうと、歌舞伎を観る意味そのものが曖昧になってしまうからです。


オペラへの新演出は最近では意表をつくものが多いようですが、音楽はあくまでもワーグナーであり、ヴェルディのものです。「野田版」はバイロイト祝祭管弦楽団&合唱団を使って劇団四季のミュージカル演じても「クラシック」なのかと問い始めることに近いのですが、一方でこういう問いそのものが愚問のような気がしてもくるんですね。


何を表現していればギリギリに歌舞伎(あるいはクラシック)足りえるのかを問うているのですが、音楽と演劇と映画と読書の日々というブログでの


この作品は、野田舞台を歌舞伎役者が演じているから歌舞伎なのであって、もしそうでなければ普通に舞台作品として成り立つ作品だと思う。


という認識は、最初に提示していた回答の一つではあるものの、この言い切りは潔く、一刀両断にしてこれ以上詮索しても無意味であろうかと思わせる説得力を感じましたです。

4 件のコメント:

  1. はじめまして。ぽん太と申します。とても興味深いブログですね。
    今更、古い記事にコメントをつけるのもなんですが、Yukihiroさんがお感じになっておられることが、私にも常にある問いだったものですから、思わず書き込ませていただきました。
    「歌舞伎としてのエッセンスとは?」
    「どこまでが歌舞伎として許容されるのか?」
    これはとても難しい問い掛けですよね。まさにヒュドラそのもの。
    茫洋とした形ではあるのですが、私にはなんとなくその一線めいたものはあったりいたします。もちろん、多分に主観。まだまだ、客観たりえていません。
    といいましても、主観と客観のような地平でいくらあぶりだしてみても、歌舞伎は定義しえないような気もしているのです。
    ただ、今の時代を生きる私が歌舞伎に求めるものは、歌舞伎発生時の原初的エネルギーではありません。それらのエネルギーは歌舞伎に残っているかも知れませんが、再演主体の凍結芸術といわれる歌舞伎に「今感」を期待することは違うような気もするのです。
    すでに現代演劇というものがある以上、芝居=歌舞伎だった時代の心象や機能をすべてになわせるのは困難とも思います。
    いずれ自分なりに「私にとっての歌舞伎」を言語化してみたいと思いつつ、Yukihiroさんの歌舞伎をめぐる刺激的な問答がこれからどのように発展するのかも、とても楽しみにしています。

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  2. こんばんは。コメントありがとうございます。
    七月の歌舞伎座は 『NINAGAWA十二夜』でしたね。これには全く食指が動きませんでしたので、二ヶ月歌舞伎からは遠ざかってしまいました。
    「歌舞伎とは何か」などと考えることに意味などないのかもしれないとは思いつつ、現代まで生きてきた伝統芸能が、どのような受容のされ方をし、観客の需要と要求の中でどのように変質してゆくのかを見ることは興味深いことです。
    再演主体という点では、クラシック音楽とも通ずるものがあるのですが、pontaさんのお考えもいつか聞かせていただけるとうれしいです。
    これからもよろしくお願いいたしますね。

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  3. yukihiroさん、お返事ありがとうございました。
    クラシックと歌舞伎、オペラという芸術があるためか、「似ている」と比較されることも多いですね。
    私はあいにくとクラシック音痴なのですが、オペラと歌舞伎の一番の違いは、楽曲が物語を支配する構造であるか、演じ手が自在にアレンジすることが前提とされている芸能であるかでは?などと感じています。
    同時にyukihiroさんが、
    >「野田版」はバイロイト祝祭管弦楽団&合唱団を
    >使って劇団四季のミュージカル演じても
    >「クラシック」なのかと問い始めることに近い
    とご指摘なのは、実に面白く感じました。
    私には、とても腑に落ちる譬えでした。
    一連のエントリーを拝読し、自分なりに「私にとっての、歌舞伎であることの最低条件」みたいなものをまとめてみました。
    事前に許可なくTB申し上げましたが、お時間がありましたらご覧いただけると嬉しく思います。
    これからも、どうぞよろしくお願いします。

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  4. ぽん太さん、こんにちは。コメントとTBありがとうございます。貴殿もブログを持たれていらっしゃるのですね。ちょっと今週は時間が取れませんが、改めましてゆっくりお邪魔させていただきます。
    そうそう、八月の歌舞伎座は串田戯場の『法界坊』でしたね。野田版も、初演の時は再演されることは思ってもいなかったようですし、再演するからにはという意気込みも野田秀樹+中村勘三郎にはあったようです。繰返すことで洗練され時代によって淘汰されてゆくのも文化のありよう。どなたかのブログで、今回の現代的なギャグや皆がステップを踏んだ「だんまり」も、後世に「型」として伝承されるかもしれないと書かれていました。「時代が判断」と言いますが、ここが最も重要で、時代に合わなことが無価値の査証ではなく、だからこそ興味深いわけです。
    これからもよろしくお願い致します。

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