私的なLife Log、ネット上での備忘録、記憶と思考の断片をつなぐ作業として。自分を断捨離したときに最後に残るものは何か。|クラシック音楽|美術・アート|建築|登山|酒| 気になることをランダムに。
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2013年12月14日土曜日
2013年12月11日水曜日
アンドレアス・シュタイアー&佐藤俊介 トッパンホール 2013/12/11
- フォルテピアノ:アンドレアス・シュタイアー
- ヴァイオリン:佐藤俊介
- モーツァルト:フォルテピアノとヴァイオリンのためのソナタ ハ長調 K303(293c)
- モーツァルト:フォルテピアノ・ソナタ第8番 イ短調 K310(300d)
- モーツァルト:フォルテピアノとヴァイオリンのためのソナタ ホ短調 K304(300c)
- モーツァルト:「ああ、私は恋人を失った」の主題による6つの変奏曲 ト短調 K360(374b)
- モーツァルト:フォルテピアノとヴァイオリンのためのソナタ ニ長調 K306(300l)
シュタイアー氏のピアノは繊細にして切れ味よく、また軽やかで小気味よく、それでいて深い、空気まで弾ききるような感じです。K310の疾走感は悲しみに走りすぎずに節度ある演奏に思えました。しかしそのスピード感は尋常ではなく、モーツァルトの音階とアルペジオの連綿たる連なりがひとつの世界を構築していきます。
私の感想とは逆に、ネットでは二人の呼吸があっていたとの感想も多く好意的なようです、アンサンブルでの合いかたも初めて共演するとは思えないほど、との評価もみかけました。
2013年12月7日土曜日
2013年11月21日木曜日
エンリコ・ガッティ @白寿ホール コレッリ
グイード・モリーニ(チェンバロ) Guido Morini - harpshichord
曲目 未発表コレッリ
THE UNKNOWN CORELLI From the 12 unpublished sonatas in the Assisi manuscript
- ソナタ 第1番 ニ長調
- ソナタ 第2番 イ長調
- ソナタ 第3番 ニ短調
- ソナタ 第5番 イ短調
- ソナタ 第6番 ト長調
- ソナタ anh.34 ニ長調
- ソナタ 第7番 ヘ長調
- ソナタ 第8番 ハ短調
- ソナタ 第9番 変ロ長調
- ソナタ 第10番 ト短調
- ソナタ 第11番 ホ長調
- ソナタ 第12番 イ長調
- ソナタ anh.33 イ長調
- ソナタ anh.35 イ短調
すばらしいの一言、充実の音楽。コレッリの初期作品が、こんなにも豊かに響くのだとは。
2013年11月14日木曜日
2013/11/14 —遠い風景—第10回 永野一久 テンペラ画展
以下は個展の解説の抜粋
2013年10月28日月曜日
2013年10月23日水曜日
この国はどこで間違えたのか 寺島 佐高
日本の歴史認識
独り立ちできない
成熟しなかった団塊の世代
世代として次の世代に何かを残す責任
冷戦後の日本の立ち位置
ドイツはアメリカとの関係を見直した
自由主義、市場経済の資本主義の限界
哲学の必要性
揺り戻し
アジアからの視点
幼稚な政治家しか生み出さなかった
個としての独立
アメリカの責任追及
原発のGEとか
対米追従という思考停止
表面的な右傾化、愛国心
歴史に学ぶこと
石橋湛山
魯迅
江藤淳
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2013年10月14日月曜日
2013年10月5日土曜日
2013年9月28日土曜日
蟻鱒鳶ル 2013年
東京三田にある「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」です。
ときどき見に来ているのですけど、なかなか工事が進まないですね。
造る行為そのものに意味があるような建物ですから、造ることそのものが目的化、永遠に作り続けることが命題化されているのでしょうか。
2013年8月25日日曜日
2013年8月16日金曜日
高村薫:太陽を曳く馬を読了はしたものの
2013年8月3日土曜日
村上春樹 1Q84 読了
批判者はあまり、文学に親しんでおらず、たまたまベストセラーだから始めて読んだみたいな人も含まれているようである。
村上作品は、決してわかりやすくないし、面白くもない。
自分勝手で日現実的なキャラも共通。
意味深なような謎掛けはあるものの全くの解決はなく。
ノルウェーの森に見られた性描写はここでさらに枠を拡げる。
何を書きたいのか?と疑問をつける人も多かろうが、多義的な世界を書いていることは確か。
しかし、最初のクールな青豆のイメージがだんだん幼稚になっていった、という感想は一理あると思うとともに、女から母親になったことによる変化ととらえてもいいのかも。
あくまでも男性視点あることは否定しない。
20年前との幼なじみが再び出会うなんてロマンとも思えないような妄想を小説の一つのテーマと大団円に据えることそのものが、歪で現実感も生活感も伴わない設定に思える。
天呉のあくまでも社会性のない、ナルシスてィゥクな受け身なキャラ、そのままの印象。
読んでいて、村上小説の世界観やキャラ設定を理解できない人には、つまらない以上に、嫌悪さえ覚えると思う。
しかし、ここに描かれた、ある種の回復できない喪失感と再生への期待とか、より困難な世界に立ち向かうスタンスとかは、ひとつの村上的な理想を示しているかもだ。あくまでもロマンとして。
この程度のロマンも許さないのならば、世の小説のほとんどはゴミ箱行だ。
宗教に対する認識の薄さは、ちょっと目に余るのだけど、宗教を信じていない、あるいは批判精神もない人に、オウム的なもののありようとかを使ってはもらいたくなかったね。
読み切ってはいないが、高村薫の太陽が曵く馬の難解さと深さに比べると、恥ずかしくなるほど。
エンタメと考えれば楽しめないこともなかったよ。
2013年7月15日月曜日
村上春樹の1Q84を読んでのメモ
純愛
欠落
空白
喪失
欠落
そういうものを埋めるもの
月の多義性
表と裏
失われた分身
性の意味
孤独
人が生きるということ
何を求めているのか
心の問題
精神
宗教的なもの
それを必要とする人としない人
喪失と再生の物語
失うということ
リトルピープルとは?
良きもの?
啓示を与える
ただ犯す、壊す存在ではない
自分探しの旅
淡いロマン
あるいは幻想
アドベンチャー
小説としての面白さ
謎は謎のまま
説明しないとわからないものは説明してもわからない
最初から説明的なものを拒否
小説の入れ子構造。
2013年7月6日土曜日
大野和士指揮 新日本フィル ブルックナー7番
ツィンマーマン/「ユビュ王の晩餐のための音楽」(1966年)
ブルックナー/交響曲第7番 ホ長調(ノーヴァク版、1954年)
ワーグナー生誕200年を記念したプログラムなのだが、ワーグナーは一曲も演奏しない。大野氏がこだわりぬいたプログラムとはいえ、ひねり過ぎの感がなきにしもあらず。
シャリーノはバイオリンのフラジオレットの上に、静かな音か薄膜のようにかぶさる10分程度の曲。無調?という点ではワーグナーにつながるか。
ツィンマーマンもメジャーな曲ではない。バイオリン、チェロなどの弦が入らず、逆にオルガンやギター、ピアノ、ハープ、エレキギターなどの楽器が加わる。いろいろな曲からの引用が展開されるが、期待させたほどには乗り切れない。最後の乱痴気騒ぎのような場面(幻想の暖断頭台への行進とワルキューレが奏されるところ)も浮ついた印象だけを残す。
オモチャ箱をひっくり返したような感じ、という点では、むしろマーラーにテイストが近いように思える。
休憩をはさんでの今回のメインとなるブルックナー7番。大野氏の指揮は、過大な感情は移入せず、速めの軽快なテンポで曲を進める。盛り上がるところもしっかり音量はあり、目立った大きな破綻もない。少し雑と聴こえるところや、ブルックナー的な音の重奏感が不足しているように思え部分がなきにしもあらず、聴く場所が2階席であったせいだろうか。
しかしながら、どこか不完全燃焼の残るプログラムと演奏であったことも確か。私が聴いたのはワーグナーの息吹だったのか、正真のブルックナーだったのかと自問。
それでも、この手の音楽は生で聴くのに限ると思う。現代音楽は、聴き方や集中力が異なるから、組み合わせは別の曲が望ましいと思った次第。情よりも理が勝ったプログラムであったか。
2013年7月2日火曜日
東京ー元田久治 アートフロントギャラリー 代官山
というと、暗くネガティブな印象を受けるが、実際に作品に接した時には、むしろ暴力的な印象よりも、静謐感や哀しみとともに沸き起こる懐かしさを感じる。
それは、リトグラフという技法のもつ肌合いや温かさ、そして昏さゆえなのだろうか。作品は大きく、図録や写真から受ける印象程に画面は細緻でない点も、実物を見て初めて確認できた。
廃墟に植物をからめることで、さらに人間の時間軸から離れた永遠と新たな生命感、再生を感じる。
それが、いかなる再生なのかは示されていないけれども。
2013年7月1日月曜日
本日でGoogle Readerのサービス終了
7月1日をもってGoogle Readerがサービスを終了する。
IT Techなど幾つかの記事にもあるように、情報収集ツールとしてRSSが役割を終えたということだろうか。
ニュースフィードを集めるという役割、それらはTwitterやFacebookなどの、ストリーム情報にとってかわられたことになっている。知り合いやフォローする人がすすめる情報の方が、生な信頼できる情報であるということなのか。
分からないでもないが、そうであっても自分的にはネットから得られる情報源は相変わらずRSSが中心であり続けている。私はもう少々RSSに付き合わなくてはならない。
2013年6月22日土曜日
文化センター ヴェルディ生誕200周年記念 三ツ橋敬子+東京交響楽団 ヴェルディ「レクイエム」
今日も合唱が弱いママさん合唱の限界ソプラノがお水系オケが入らないところでズレまくってカルテットが狂ったままそこにオケがかぶさるみたいな感じでホールも市民会館レベル音が硬く疲れる、響く
久しぶりにディープなクラシックファンとの演奏会であったので、多少複雑な思いで会場を後にした。
2013年6月9日日曜日
映画:プロメテウスをiTunesで
2013年5月26日日曜日
ラファエロ展 国立西洋美術館
ラファエロは素描などを含めて20点くらい。画集が小さくて高いのには驚く。
2013年5月13日月曜日
2013/05/13 山口晃展 付り澱エンナーレ@そごう美術館(横浜)
★以下は個人的なメモです。作家さんを敬称なしでの表記はお許し下さい。
今まで何度か見た絵も多い。
特に初期の三越とか六本木の絵など
練馬美術館で見ているものも多い
銀座画廊でやった、東京俯瞰図は今でも描き込みが増えているのだろうか?
付り澱エンナーレの展示は上野の美術館で見て以来だが
彼が、いちおうは現代美術作家であることを思い出させてくれた
今回の圧巻は、ドナルド・キーン氏の本の挿絵だろうか
こういうチマチマ感とマンガはうまい
親鸞はイマイチな印象
こういうイラストを五木寛之氏が許していたか
総じて、会田誠と比べても仕方ないが
彼の絵にはユーモアを通じた若干の批判精神はあるが
毒ではなく
強烈な会田の個性と才能とは対極にあるような
会田も確かに絵がうまいと感じたが
山口の前ではうまさが彼の技量として確立できていないというか
彼の実態を表すのは現れた画にあるのではなく、
いかようにも変化自在な
(いちおう技術に裏付けられた)表現のパフォーマンスであるということ
会田の実態は絵がすべてみたいな
2013年5月12日日曜日
日曜美術館 フランシス・ベーコン
2013年5月6日月曜日
グーグルで必要なことは、みんなソニーが教えてくれた 辻野晃一郎
(ファーストインプレッション)
2013年5月2日木曜日
迷い迷って渋谷駅 田村圭介
早稲田建築出身
昭和女子大 准教授
渋谷への想いが強すぎて、少し鼻につく
二つのリングにしても、だから何それ?みたいな。
図が小さくて薄くて、建築のデザイン屋にありがちなセンス
文書もやたらと権威的なものからの引用やら、複雑難解なものからの敷衍など、これもコンセプト好きな建築屋な見られる傾向
ああ、こういうところが私はキライだったんだと思い出させてくれる。
渋谷の不思議は、素直に成立過程を図面に大きく表してくれれば、それでいいのに。やたら自分の理論に持って行こうとして、一般読者のことをあんまり考えていない。
x軸だの第ニ象限だの、お笑いか、わざわざ難しくするなよ。
大学のセンセイだから仕方ないか。
2013年5月1日水曜日
2013年4月30日火曜日
2013年4月21日日曜日
2013年4月11日木曜日
2013/04/11 アルミンク+新日本フィルハーモニー交響楽団 ブルックナー第5番 サントリーホール
2013年3月31日日曜日
2013年3月22日金曜日
会田誠展 六本木アートミュージアム
それにしても、会田誠が六本木とはいえ、美術館で個展をやるほどにメジャーというか、世間に受容されるとは!
(以下、まとまらない雑感)
欲望と混沌の批判精神
考えない人ということ
すごいことになりそう。RT“@mizumaart: 待ちに待った朗報の発表。私の目の黒いうちは実現しないと思っていた会田誠の美術館での個展がついに決定。先の話しですが、(2012年11月17日〜2013年3月31日) 会場は森美術館‼
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) October 31, 2011
日本の恥部や暗部に突き刺さり、批評精神と毒の
2013年3月15日金曜日
松井冬子 「散逸」展 成山画廊
2013年1月19日(土)~3月16日(土)
13:00 ~19:00 水・日・祝祭日休廊
成山画廊
成山画廊という小さく、非常に私的な空間のせいか、内面的で本来秘匿されている「見てはいけないもの」を見せられているような気持ちにさせられる。