指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:ボストン交響楽団
録音:1/1975
PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
全体が単一楽章で構成された有機的な形式、とは、この曲の解説の中で必ず出てくる言葉だ。演奏時間も、せいぜい20分を少し越える位の演奏であるので、一聴すると簡素にして高度に凝縮された音楽という印象を受ける。そして何度もこの音楽に耳を傾けると、ここに表現されているものは、交響曲という形式がフィンランドという極北の地で究極の形に結実した作品であると思えてくる。この交響曲に比類するものは存在せず、またこれ以上簡素にして雄大なる純音楽的世界を表現した作品もないとさえ思えてくるのだ。
同時代にドイツにおいてマーラーがたどり着いた方向とは、全く違ったベクトルを有している作品であり、これを交響曲の極北と位置付けるならば、この先に表現される音楽として何が考えられるのだろうか、という評が生ずることも止む無しと思える。
この曲の評としては、解説本などには「精神的」「原始的霊感」「渋さ」「幽久」「単純」「簡素」「無限性」などのキーワードが出てくる。このようなものを読むと、一体これ以上何を私が付け加えられることが出来ると言うのだろう。
ここで聴いているデイビス盤が、本演奏の白眉のものとはいえないであろ。それでも、この音楽が表出している世界が(それは複雑でありそして、湧きあがってくるのは言葉に換言しにくい極めて音楽的な感興であが)ひしひしと伝わってくるではないか。
冒頭からの悠久の時間を思わせるような音楽の進行は、今までの聴いてきたシベリウスの音楽の性格を持ちながらも、5番以降に聴かれたような内部から湧き上がってくる感興を抑えることが出来ない。それとともに、聴いていて不安の象徴なのかあるいは至福の表現なのか、判然としないすわり心地の悪さ、ある意味の不安定さを内包している点も曲を特徴付けていると思える。
発散しカタルシスを開放しようとしつつも円環のごとく主題が巡ってくるのを聴いていると、大いなる満足感と至福に包まれていることに気付かされる。この境地は、今まで何度もシベリウスの他の交響曲で感じたものと変わるものではない。しかし、ここでは更なる洗練が見られるということだ。
今更ここで、C・デイビス&ボストン響の演奏の特徴を挙げるつもりはない。聴きとおした印象としては、今までの演奏のスタンスと変わるところはないと思われる。非常に素直に、そしてストレートに音楽の構成と美しさを表現している。
一方で、この繊細なる音楽を表出するには、少し雑な印象を受けないわけではない。この音楽は触れれば壊れてしまうような、微妙さと脆さもかね合わせているように思える。何かが表現上足りない(あるいはやりすぎている)と思わせる部分がなきにしもあらずだと思うのである。
例えば、打楽器の扱いにしても、彼は始終ティンパニの音を全面に打ち出し、劇的な効果を曲に付与しているが私には少しうるさく感じる。また、金管群のフォルテッシモにおける響きも混沌として雑な印象だし、それに対比する弦の響きは透明で美しいというものではない。ここらあたりがボストン響の限界なのだろうか、と思わずにはいられないがいかがなものだろうか。
もっとも、だからといってこの演奏が、聴く価値のないものであるとは思わない。デイビスのある時期の彼のシベリウスの演奏解釈としても、またそういうことを抜きにしても、十分に感動を与えてくれる演奏であるとは思う。それは、デイビスのストレートさが聴くものに伝わるからだろうかと思うのであった。
時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
2002年1月2日水曜日
2001年11月25日日曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第6番
指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:1976 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
シベリウスの交響曲の中で何を最高傑作としてあげるのかを考えることは、難しくも楽しい作業だ。シベリウスをこよなく理解し愛している人にとっては、ことさら悩ましい問題であるとは思うものの、おそらくは7番を、交響曲の示した形式と内容を含めて一番にあげるのではないかと予想する。私としても、まだ7番のレヴュウは書いていないが、その考えに同意する。一方で、シベリウスを余り聴いたことのない方は2番をもって最高と考えるかもしれない。これとて無理のないことだ。シベリウスの演奏機会を考えれば2番とバイオリンコンチェルトが演奏される機会が圧倒的であろうし。
しかし、この6番をじっくり聴いてみると良い。たかだか30分弱の短い曲ではあるが、まさにシベリウス的な世界が、それもフィンランディアや交響曲第2番のような主張的な部分のない、独自の世界が広がっていることに気付くだろう。7番と優劣をつけにくいと思わせるのだ。
デイビス&ボストン盤を幾度も繰り返し聴きイメージを固めてみた。聴くにつれ、この曲の持つ深遠さと美しさに文章にとして記すことの限界を痛切に感じたものである。標題性や人間的な克苦などを感じさせない、純粋にして音楽的な感動が広がるのだ。それでもレヴュを書くに当たってはイメージしたことを文章にせざるを得ない。ある比喩は、その瞬間に浮かんだ心象でしかないため、明日あるいは数年後に同じようなイメージが浮かぶことは保証できない。ましてや作曲家のイメージとはかけ離れたものであろう。それでも、そのような文章でしか今は音楽を語ることができない、ということを前提に読んでいただきたい(久しぶりに書くとくどいな)。
さて、この曲を語るときに第一楽章の美しさは圧倒的であるということからはじめなくてはならい。冒頭のヴァイオリンで奏でられる第一主題の透明感と広がり、そして神々しさはシベリウスの作った最も美しいメロディにあげられるかもしれない。彼の音楽の持つ独特の煌きの中に永遠にも続くと思われる至福の時間が込められていることを思うのだ。
私は今までに何度か、シベリウスの音楽の魅力は煌きのようなものだと書いてきた。この冒頭主題にいたっては、氷点下の凍て付いた空気の中でキラキラと輝く氷のような煌きさえ感じるのだ。
曖昧な捉えどころのない副主題からチェロのモチーフに至る部分も聴き所だろう。チェロは若干哀愁を帯びるものの感傷的ではない。この後も、冒頭のテンションがひとつも緩むことなく駆け抜けてゆく感があり、あたかも広々とした雪原を颯爽と馬車で駆け抜けているかのようなイメージが続く。
最後に総休符をはさんだ後の金管群による額句が挿入されるが、これは何をイメージしているのだろうか。私は、その厳かさと神々しさに何か偉大なる存在さえ感じる。他の交響曲でも感じたことだが、それは極めて崇高で宗教的体験に近いが、キリスト教のような特定の宗派を想定させるものではない。むしろ自然に対する畏敬や畏怖から生じるようなものといったほうが適切かもしれない。
第二楽章と第三楽章は非常に短い。繊細さと静けさを感じさせる冒頭から後半の明るさの対比が美しい第二楽章、スケルツオ風の騎行的なリズムにのって軽快に唄われる第三楽章など曲としての面白さも多い。響きも極めてシベリウス的でありしかも内省的であると感じる。第三楽章の軽快なリズムさえ、どこかへと一足ごとに進んでゆく足音を感じる。
第四楽章は再び深遠にして崇高なる世界に引き戻される。冒頭の切迫と哀愁を帯びた弦と木管による上昇と下降の音形による応答が繰り返され変形しながら音楽は進んでゆく。何かに対し問いかけている作曲家の姿なのだろうか。優しい調べがフルートで添えられる。音楽はその後急速に駆け出し盛り上がりを作り始めるが、開放し外に叫ぶような高揚ではなく、内部の高まりと喜びを抑制しながら歌い上げているように感じる。
金管によるクライマックスがあるかと思ったら、はぐらかすように音が殺ぎ落とされ冒頭主題が回帰するあたりは第4交響曲を彷彿とさせる。この部分は何度聴いてもぞっとする。最後に盛り上げて終わることをせず、あえて素朴なる弦による結尾主題で静かに曲を閉じたシベリウスの意図について推し量るのは難しい。消え入るような終わり方は、冒頭主題へ円環のようにつながる永遠性を感じるというと、考えすぎだろう。この主題の終わり方には何かへの深い祈りのようなものを感じさせずにはいられない。
��・デイヴィス&ボストン盤を本シリーズのベース演奏にしているが、これがシベリウス演奏の最良盤であるからという理由ではない。たまたま家にあった全集版であるという以外には明確な理由はない。それでも、こうして聴いてくると、クセのない素直な演奏なのではないかと思えてくる。デイヴィスには新録もあるし、ボストン響も十分に上手いわけではないという評価もあるのだろう。それでもストレートに曲のよさを、過度の装飾や思い入れを入れずに演奏しているという点では評価できるものであると思うのだ。
2001年8月16日木曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第5番
指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:1/1975 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
シベリウスの5番を曲をよく聴くにつれ、シベリウス独自の音楽的世界と音響の魅力に深く感動を覚えるのを禁じることができない。曲の全体的な印象は、前作の4番で見せたような暗さはない。エネルギッシュでまた大いなる畏敬と深い至福の感銘に満ちた音楽に仕上がっている。
シベリウスの交響曲は標題音楽ではなく、いわゆる絶対音楽と区分されているが、私には音楽的にこの両者を厳密に区別する必要があるのかと疑問を感じることがある。「標題的」「絶対的」ということ意味があるのだろうかと思うのだ。音楽研究の場ではその区別は必要なのだろうが。
なぜこのようなことを書き始めたかというと、シベリウスの音楽を聴いていると、色々なイマジネーションや感情的なものが心の中に浮かんでくるからなのだ。たとえば、第一楽章の冒頭のホルンによって導かれる木管の音などは、靄の中からの朝日のようですがすがしい思いがするし、第三楽章の冒頭の弦のトレモロなどもそよぐ風の音を聴くかのようだ。何らかの標題を付けたとしても不思議に思わないかもしれない。
そのような自然や体験から得られたインスピレーションを背景として、壮大な音楽的な世界が立ち上がってくる様はまさに圧巻である。シベリウスがフルートやトランペットを始めとする金管群に与えた役割は何と重要であろうか。クライマックスで現れる主題群は重層的な和音は、ブルックナーのようなオルガン的音響を形作る。
終楽章(第三楽章)のラストのあり方は、6つの和音が離れ離れに響き、決然たる終わり方をするのだが、なんとも不思議な終わり方をすると初めて聴いたときに感じたものである。それまでのトランペットを中心に奏でられる2分音符主題が、余りにも音楽的な充実感に満ち満ちているだけに、ラストの不自然さはいっそう際立って感じられたのである。
しかし何度もこの曲を聴くうちに、あのような曲の終わり方は、抒情に流されないかのような強い意思表明のようにも思えてきて、それがかえって心地よく響くようになってくるものである。
いままでのC・デイヴィス&ボストン響の演奏をどのような評で書いてきたか、本当は振り返る必要があるのかもしれない。今はそれを行わないが、この演奏を聴いてデイヴィス&ボストンてこんなに弦が美しくそして、打楽器や金管が力強かったかしらと思ってしまった。
特に第一楽章の最後など、トランペットの終結主題にたたみ掛けるような打楽器がかぶさり、スピーカーを通して聴いていたら圧倒されてしまい、開いた口がふさがらない状態になってしまったものだ。
先に書いたブルックナー的な和音の重なりも十分に満喫することができ、聴き終った後に至福にも似た充実感に満たされる。これぞシベリウスという感じだ。良く聴くとこの演奏には粗さもある、オケが抜群に上手いというわけでもない。でもある種の清冽さと潔さが感じられ曲の持つ性質を表現し尽くしているようにも思えるのだ。
2001年7月8日日曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第4番
指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:11/1976 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
シベリウスの交響曲第4番を聴くのは、結構しんどいものである。今までの交響曲とは違い、雰囲気も非常に暗く、救いがない音楽という人もいる。いわゆる主題を展開してゆくような明快な音楽構成もとられていないため、音楽的にもとらえどころがない印象を受ける。
全曲を通じて、鬱屈した雰囲気を吹き飛ばすような部分もほとんどなく、ひたすら内省的に内側へこもってゆく世界を聴くことになるのだが、暗さを聴くことで得られるカタルシスも得にくい曲ではないかと思う。プロの演奏家でも「二度と演奏したくない曲のひとつ」という感想も、どこかのBBSで読んだことがある。
シベリウスがどうしてこのような暗い曲を書いてしまったかは、CDの解説やシベリウスのHPを参照くだされば詳しく書かれているので割愛させていただくが、人生のどん底のような気分においても曲を描かなくてはならなかった彼が、このような音楽を描く事で癒されたのだろうか、と考えずにはいられない。モーツアルトのようにいかにも天上の音楽としか聴こえないような曲を描いたのとは対照的ではあると思う。
この曲を最初に、C・デイヴィス&ボストン響の演奏で聴いてみた。この演奏を通して曲の概要を眺めてみたい。
第一楽章のチェロの出だしの不気味さと続く寂寞とした主題は、まさに死の淵を思わせる絶望さに満ちている。この雰囲気は全編を支配する感情だと思う。中間部分も色々なモチーフが受け継がれながら、感情の浮き沈みのようなものを感じるのだが、楽器が和音を奏でている中からスッとソロが現れる部分の寂しさなどは、ふと気付いたら自分しか残されていなかった、というような気にさせられる。楽譜を見ながら演奏を聴いているわけではないので、ぼんやり聴いていると、捉えどころのない楽章である。徐々にたかまり、ひとつのクライマックスに達するかに見えるが今までのシベリウスのように弾けることはなく、再び最初の暗い雰囲気に何時の間にか連れ戻されている。
第二楽章は田園風のスケルツォで始まるのだが、下降音形から金管に受け継がれたあたりから、急速に日は翳り暗さが支配してくる。フルートが軽妙に主題を奏で、彩りを添え上に駆け上ろうとする雰囲気が現れはするのだが、もやもやした感情が抜けきることはない。切り込むような弦のやコントラバスの低い響きが、暗雲が立ち込めるかのような寒々さや不安定な感情を表出しているかのようだ。
第三楽章はフルートが非常に印象的なテーマを奏でて始まるが、この楽章にくると明るさは全く消えうせる。前楽章の田園的な雰囲気も何か良き遠い日の思い出と感じるようで、深く内省的で、自分の中にひたすらこもってゆくかのような音楽で、思いは取りとめがない。中間でチェロが哀愁ただようテーマを奏でるが、これは嘆きのテーマなのだろうか。寂寞茫洋とした楽章の中で唯一発展を感じさせ、核となって聴こえてくる。聴き様によっては泣きの旋律であろうが、うたいすぎるとチャイコフスキー的にいやらしくなりそうなテーマだ。デイヴィスはそうはなっていない点、演奏的にはマルである。
第4楽章は鉄琴が効果的に使われており、煌きや光が垣間見えたかのような印象で開始される。音楽の構成もシベリウス的な雰囲気が漂い、曲としての救いが見えてくるように思える部分である。シベリウスの上方と光や希望を希求する気持ちが込められた部分だろうか。しかし、ポジティブな気分はこの交響曲を支配しない。ティンパニの連打とともに、剥ぎ取られるかのように明るさは掻き消え、何時の間にか回りは冬になっているかのような寒々とした風景が広がり、またしても自分だけが取り残されていることに気付かされて、音楽は終わる。
シベリウスがどう意図したかは別として、私はこの部分を聴くたびに「北国の作曲家の音楽だな」と思わずにはいられない。北国の短い夏、太陽を満喫して馬鹿騒ぎしているのもつかの間である。秋とは名ばかりの季節が駆け足のように冷たい風とともに通り抜け、気が付くと冬景色になっている、という感覚。何かやり切れず、取り残され騙されたと思うような感覚。こういう気持ちは、南国育ちの人にはなかなか分からないかもしれないと思うのである。
さて、このような曲をC・デイヴィスは、しかしながら、ひたすら暗く内省的になることを避けるような演奏をしているような気がする。
聴きとおした後に、虚無に教われるような絶望感や疲れはあまり感じない。むしろ、そこかしこにちりばめられた、何か光を予感させるような響きの方が印象に残り、果てしない絶望感を救っているように思えるのだ。
何が何でも作曲家の心象や当時の境遇を曲や演奏に反映させなくてはならないというものでもない、という意思表示のような気もする。曲を曲としてありのままに捉えた演奏というのだろうか。ラストにしても、一人舞台の中央にスポットが当たった状態で、取り残されはするが、そこからどこにも歩めないというような終わり方には聴こえてこない。
演奏自体も新鮮な響きに満ちており、低い重心で押しまくるという演奏ではない。感情をこめた重い演奏とはせずに、この曲のもつ怜悧な美しさと寂寞感をうたいあげている。それが、この演奏の弱さや説得力のなさにつながると感じる人もいるかもしれないが、私はそうは感じない。この演奏を、「聴きたい」と思ったときに余り抵抗なく、しかもシベリウス的な響きを感じながら思いに耽ることのできる演奏だと思うからである。良く聴き込むと「とりとめがない」と感じる断片が、輝きをもって立ち上がってくる部分も多々あり、「暗い、重い、救いがない」というレッテルだけで聴かずにいるにはもったいない曲であると思うのである。
2001年6月3日日曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第3番
指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:ボストン交響楽団
録音:1976
PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
シベリウスの交響曲第3番というと、人気の2番と暗い(^^)4番にはさまれた曲であり、印象が薄い曲であったが改めて聴いてみると見事なまでの構成美と簡潔な表現が心地よく、しかも随所にシベリウスの音楽の特徴とも言えるようなサウンドや書法が見て取れ、名曲であることに気付かされた。開放感と明るさは、ハ長調という調性を象徴しているかのようである。イメージ的にはベートーベンの第4交響曲のような印象を受けた。
��・デイヴィス&ボストン響の演奏で聴いてみたのだが、何故、交響曲第一番を聴いたときに彼の演奏を「シベリウス的ではない」と感じたのか疑問である。オーケストラの編成のせいもあるのだろうか、この演奏からは、スリムさと清涼感や爽快感そして、若々しい推進力を感じることのできる演奏で、曲のもつ魅力を十二分に表現しているのではないかと思うのだ。まさにどこを切ってもシベリウスの世界がここにはある。
第一楽章は、何の前触れもなくそして唐突にチェロとコントラバスの主題により始まるのだが、この細かく刻まれるリズムと躍動感は楽章全体を支配する雰囲気である。それに絡む木管とともに一気に盛り上がりを見せるが、走っている途中から至福にいたり視界が一気に開けたかのような印象を受ける。第二主題が幾分ノスタルジックに繰り返されるも、湿った感情はそこにはなく、さわやかさを全身に感じる楽章である。
第二楽章も最初にフルートで提示されたテーマが色々な楽器に引き継がれ展開してゆくが、森の中を一歩づつゆっくりと進むがごとくの感がある。時に立ち止まり森の中の鳥のさえずりや水の音に耳を傾けるかのように思えるところもある。第一楽章もそうだが、だからといって情景描写的な音楽ではない。むしろ、自然の風景や音に耳を澄ますことで、自らの内面世界を見据えているかのようなところがある。その内省もネガティブな方向に向かうことはなく、若干の寂寞感を伴う部位はあるにしても、第一楽章同様にどちらかというと躍動感と静かに満ちてくる内的な満足と至福を感じるのだ。
このような音楽のありようは、シベリウス本人が都会の生活を離れヤルヴェンバーの田園の家に移り住んだ環境の変化と無縁ではないように思える。この交響曲を聴くと、シベリウスはこの地で、新たな境地を開いたということに気付くのだ。
第三楽章は、第二交響曲でもそうであったように、性格の異なる楽章が単一楽章として有機的に結び付けられている。スケルツォからフィナーレへの移行は非常に巧みであり、いつのまにかすばやい躍動が、雄大ではあるものの過剰ではないコラールに変化しているさまは、聴くものに大きな満足と喜びを与えてくれる。しかし、その感動も第二交響曲のようなある種のあざとさというものはなく、簡潔にして慎ましやかでさえある。ラストの終わり方など、あっさりしすぎていると感じる人もいるかもしれない。演奏時間もこの8分半くらいと短いにも関わらず、短さによる不満は微塵も感じさせない。
全体を通してわずか30分弱の曲であるため、マーラーやブルックナーなどの曲を聴きなれているといかにも「短い」と感じるのだが、交響曲のもつ美しさと、シベリウス的世界の美しさが見事な構成美の中とともに、幾重にも折り重なるように微妙な襞をえがき出したている。やはり、この曲は以前のシベリウスとは完全に一線を画する曲であると認識するのであった。
��番に関しては他の演奏との比較がまだ、できていない段階であるため、デイヴィス&ボストン響の演奏について評することは難しい。明晰にして非常に歯切れの良い演奏であり、また弦楽器の切れも良く何度聴いても心地の良い演奏に仕上がっている。
シベリウスの交響曲第3番というと、人気の2番と暗い(^^)4番にはさまれた曲であり、印象が薄い曲であったが改めて聴いてみると見事なまでの構成美と簡潔な表現が心地よく、しかも随所にシベリウスの音楽の特徴とも言えるようなサウンドや書法が見て取れ、名曲であることに気付かされた。開放感と明るさは、ハ長調という調性を象徴しているかのようである。イメージ的にはベートーベンの第4交響曲のような印象を受けた。
��・デイヴィス&ボストン響の演奏で聴いてみたのだが、何故、交響曲第一番を聴いたときに彼の演奏を「シベリウス的ではない」と感じたのか疑問である。オーケストラの編成のせいもあるのだろうか、この演奏からは、スリムさと清涼感や爽快感そして、若々しい推進力を感じることのできる演奏で、曲のもつ魅力を十二分に表現しているのではないかと思うのだ。まさにどこを切ってもシベリウスの世界がここにはある。
第一楽章は、何の前触れもなくそして唐突にチェロとコントラバスの主題により始まるのだが、この細かく刻まれるリズムと躍動感は楽章全体を支配する雰囲気である。それに絡む木管とともに一気に盛り上がりを見せるが、走っている途中から至福にいたり視界が一気に開けたかのような印象を受ける。第二主題が幾分ノスタルジックに繰り返されるも、湿った感情はそこにはなく、さわやかさを全身に感じる楽章である。
第二楽章も最初にフルートで提示されたテーマが色々な楽器に引き継がれ展開してゆくが、森の中を一歩づつゆっくりと進むがごとくの感がある。時に立ち止まり森の中の鳥のさえずりや水の音に耳を傾けるかのように思えるところもある。第一楽章もそうだが、だからといって情景描写的な音楽ではない。むしろ、自然の風景や音に耳を澄ますことで、自らの内面世界を見据えているかのようなところがある。その内省もネガティブな方向に向かうことはなく、若干の寂寞感を伴う部位はあるにしても、第一楽章同様にどちらかというと躍動感と静かに満ちてくる内的な満足と至福を感じるのだ。
このような音楽のありようは、シベリウス本人が都会の生活を離れヤルヴェンバーの田園の家に移り住んだ環境の変化と無縁ではないように思える。この交響曲を聴くと、シベリウスはこの地で、新たな境地を開いたということに気付くのだ。
第三楽章は、第二交響曲でもそうであったように、性格の異なる楽章が単一楽章として有機的に結び付けられている。スケルツォからフィナーレへの移行は非常に巧みであり、いつのまにかすばやい躍動が、雄大ではあるものの過剰ではないコラールに変化しているさまは、聴くものに大きな満足と喜びを与えてくれる。しかし、その感動も第二交響曲のようなある種のあざとさというものはなく、簡潔にして慎ましやかでさえある。ラストの終わり方など、あっさりしすぎていると感じる人もいるかもしれない。演奏時間もこの8分半くらいと短いにも関わらず、短さによる不満は微塵も感じさせない。
全体を通してわずか30分弱の曲であるため、マーラーやブルックナーなどの曲を聴きなれているといかにも「短い」と感じるのだが、交響曲のもつ美しさと、シベリウス的世界の美しさが見事な構成美の中とともに、幾重にも折り重なるように微妙な襞をえがき出したている。やはり、この曲は以前のシベリウスとは完全に一線を画する曲であると認識するのであった。
��番に関しては他の演奏との比較がまだ、できていない段階であるため、デイヴィス&ボストン響の演奏について評することは難しい。明晰にして非常に歯切れの良い演奏であり、また弦楽器の切れも良く何度聴いても心地の良い演奏に仕上がっている。
2001年5月14日月曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第2番
指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:1976 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
��番の感想で、デイヴィス盤を冴えない印象を受けたように書いてしまったが、2番を聴いた今となっては、全くもって撤回せねばならないと思わせる演奏だ。先入観などを極力排してこの曲と演奏に耳を澄ませると、シベリウスの表現しようとしていた音楽世界が眼前に立ち上がってくるのを感じることができるのだ。弦セクションや打楽器セクション、そして金管群のバランスも音も良く、またダイナミックレンジも広いため、十分にこの曲を楽しむことのできる演奏であると思う。
シベリウスの2番というのは彼の作品の中でも、フィンランディアやヴァイオリン協奏曲などと並んで人気のある曲だろう。実際、親しみやすくなじみやすいという印象を受けるし、終楽章で大きな感興を得ることも出来る。
この曲が「極めてシベリウス的」であるかどうかは、よく考えなくてはならない。確かに、4楽章の音楽からフィンランドの愛国的心情を感じ取ることもできるし、暗い部分(抵抗)から勝利のフィナーレというテーマでも聴くこともできる。しかし、シベリウス自身が我々が期待するような政治的標題性を否定しているがゆえに、本来は純粋に音楽的に観賞すべきなのかもしれない。デイヴィス/ボストン響の演奏で、この曲の世界に入ってみよう。
第一楽は冒頭の序奏から意味ありげなのだが、弦のユニゾンに適度の重厚感があり曲に対する期待が高まる。さわやかにして輝くような一日の朝の始まりを感じるようで、この交響曲で非常に好きな部分である。ここだけ聴いてもシベリウス的と思うのだが、それは、弦楽器と木管楽器の合わさったメロディに特徴的なせいなのだろうか。木管で奏される第一主題は鳥のさえずりのようでもあるし、雄大な第二主題は広々とした景観を前にしたときのような思いさえ受け、頬に風の匂いさえ感じるようだ。聴きようによっては第一楽章は情景描写的であり、移ろいゆく時間と風景を楽しむことができる。この部分だけ聴いていても、デイヴィス/ボストン響の演奏は明確であり、音楽が伝える世界をストレートに聴くものに伝えてくれているように感じる。
第二楽章は、一転して暗いファゴットによる第一主題で始まる。このテーマは弦のピチカートに乗って、ホルンの音色に彩られながら進行してゆくが、迫りくる不安を象徴するかのようであり性急さとともに盛り上がる。峻厳なる渓谷かなにかに突き落とされたかのような印象を受け得るが、一転した第二主題には救われる思いがする。この主題には懐の深さや、深い慈悲のようなものを感じる。続いて奏でられるトランペットとフルートの掛け合いは聴き所である。あたかも、崇高なるものとの深き対話を聞くようで、自ずと頭が下がる。しかし、感想を書いていて思うのだが、激しさとともに彼の曲には「峻厳さ」とも言うべキーワードがあるように思える。ここが彼のオーケストレーションの特徴なのだろうか。蛇足だが、この楽章を聴くと、チャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」を思い出すのは私だけか。
第三楽章はスケルツォである。非常に早い弦の動きが、聴くものをどこかに連れ去らずには行かないようなエネルギーを感じるが、一転してオーボエの牧歌的とも言えるテーマが始まると過ぎ去った昔を思い出すかのような気にさせてくれる。幸せな時代の、干草と陽だまりの匂いがするような、そんな懐かしさだが、シベリウスはこの感傷は長引かせない。繰り返しはあるものの、冒頭のスケルツォの速い動きによりかき消され、留まることを許してはくれない。
緊張は徐々に高まり、そしてなんとも表現のしようのないような移行により感動の第四楽章へと突入する。この部分は何度聴いても素晴らしい。つれてゆかれた先の世界が何と希望と光に満ち溢れた世界であることか。弦の第一主題は平和を獲得した喜びの声のようにも聴こえるし、トランペットの勇壮なる応答は、勝利の雄たけびのようにも聴こえる。
木管による第二主題はいろいろに変形されて繰り返し奏されるが、なんとも切ないメロディである。このメロディを聴くだけで泣けてくるのだが、それは、非常に多くの感情がこの旋律に込められているからなのかもしれない。世間的なシベリウスのイメージにらぶらせるならば、圧迫への抵抗や哀しみ、そして限りなき平和を願う声などと言うことも可能だろうが、若干の抵抗を感じずにはいられない。この曲が発表されたときに、指揮者カヤヌスなどが愛国的な心情の代弁と受け止めたのもむべなるかなとは思うのだが、デイヴィスの演奏では、それが普遍的な感情にまで高められているようにも思える。惜しいかなフィナーレでは金管群が少し崩壊している部分もあるが、これだけの高まりと感動を与えてくれる演奏である、大きな問題ではない。
2001年5月7日月曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第1番
指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:ボストン交響楽団
録音:1975
PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
コリン・デイヴィス&ボストン響のシベリウスといえば、それなりの名盤なのではないかと思う。名曲名盤300選とかでも上位に挙げられる演奏であろう。今回の特集を行うに当たり、当初はデイヴィス盤をベースにしようとも思っていたのだが、やはり「正統派」のベルグルンドとの比較がなくてはと思い、まずは、彼の旧盤を聴きそして、デイヴィスを聴いてみたのだが、何たる違いか!と驚いてしまった。同じ曲を演奏しているとは到底思えないほどの差異があるのだ。
デイヴィス盤とて、先に書いたように名盤である。しかし聴く前に先入観や偏見が入ってしまうのだろうか? ベルグルンドから聴こえた涼しげにして冷ややかな空気は、デイヴィス盤からは感じないのだ。また、ベルグルンド&ボーンマス響盤よりも、ロマンティシズムに傾いていた演奏のように感じられる。
例えば、アッチェレランドの掛け方や、逆に旋律を劇的に盛り上げるためのリタルダンドのかけかた、はたまた強弱の付け方も大きく、それ故オーケストラは壮大にして華麗になっている。美しい旋律はあくまでも美しく、甘い旋律はひたすら甘い。ソロの部分は協奏曲のように処理されているように感じるし、オーケストラの個々の音も非常に明確である。そういう意味からは、非常に説得力をもった演奏と言えるのかもしれない。
しかしなのだ、全体を通してシベリウス的な匂いがないのだ。ベルグルンドが表現していたフィンランドの息吹、息遣いが聴こえない。例えば第1楽章にしても、ベルグルンドではものの数分も経たぬうちに、これがシベリウスの記念碑的な第一交響曲であることを否がおうにも感じさせてくれた。あまりにもシベリウス的な匂いと賛歌に充満しているのだが、デイヴィスはそのように処理していない。あれほどの感動を与えた第一楽章が、核を失ってバラバラな音楽に聴こえてしまう。
あるいは、第2楽章の弦のテーマの裏にフルートが繊細な伴奏をつけている部分。ベルグルンドが表現した風のような、そして思わずゾクリとするような感触が、この演奏からは聴こえないどころか、非常に野暮ったい処理にさえ感じる。
第4楽章の中間部のメロディなどは、ゆっくりと悠々とオケを歌わせているのだが、ふと気付くと「映画音楽のよう」に聴こえてしまうではないか! これは一体どうしたことなのか。
デイヴィスはロンドン響を従えた演奏をサントリーで聴いたことがある。そのときは、ヴァイオリン協奏曲と交響曲第2番であった。非常に満足を覚えてホールを後にしたことを覚えているが、この盤の演奏からはシベリウスのエキスが抜けてしまっているように思えてならない。特集を続けてゆくことで、二人のシベリウスへのアプローチの違いが如実に見えてくるのだろうか?ベルグルンドにあって、デイヴィスにないものは、もしかしたら「情念」なのかもしれない。
最後に、付け加えておくが、決してこの演奏が「ダメ」とか言っているのではない。何を表現しようとしているかの違いなのではないか、と思うのだ。デイヴィスの「何か」は、今はまだ見えない。
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