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2009年2月8日日曜日

宮下誠:カラヤンがクラシックを殺した


「20世紀音楽」「20世紀美術」などの著者として知られている宮下誠氏の問題作「カラヤンがクラシックを殺した」を読んでみました。宮下氏のブログなどを読むと、相当にネット上で叩かれたようです。しかし彼の書いたメッセージについては、納得できる点も多い。

カラヤンの音楽を綺麗なだけで、人工で自己欺瞞的な「美」の幻影(P.49)とする見方に同意するクラシックファンは少なくないでしょう。そこまでは良いとしても、カラヤンの音楽を精神史的な観点の中に位置付け、戦後の世界観を支配する平板で欺瞞的な知のあり方の象徴と見なしていること、そしてカラヤンを受容した一般大衆を容赦なく、お前たちも同罪だと断罪しているところは、大きな反発と批判を浴びたように思えます。あるいはクラシックに詳しくない読者には、音楽とはかくも恐ろしいものかという拙い印象を与えたかもしれません。

もう少し詳しく書きましょう。宮下氏は20世紀から21世紀にかけての世界を荒廃した絶望的歴史風景(P.50)と捉えています。そこには世界の不条理や、そこにいる「私」の癒しがたい絶望があり、このような自己も含めた人間存在の本質的な痛み、生きることの苦しみ、「ある」ということの絶望的な重さ「世界苦(ヴェルトシュメルツ)」という言葉で代表させています。

カラヤンの音楽は、「世界苦」に対して恐ろしく鈍感、同情が欠如しており、「世界苦」を欺瞞で糊塗してきた世界の象徴的存在であるがゆえに、一般大衆に与えた影響は甚大で、

カラヤンは断罪されなければならない。(P.56)

と宮下氏は主張します。そしてカラヤンの音楽が美しければ美しいほど、また聴衆=一般大衆がそれを受容するほどに、その無自覚なイノセントさは罪であるのだとします。

宮下氏の一般大衆に対する批判は、実はカラヤンのそれ以上に強烈です。例えば次のような一文です。

「大衆」はいわば自分の努力のなさ、向上心の欠如、金銭を最高の価値としてあがめたてまつる拝金主義、他人の不幸を隠微に喜ぶ底意地の悪さ等々を棚上げにして、ささやかな幸福に満足し、その価値観の下、自分に理解できないものを仮借なく排除し、或いは価値切下げを断行し、才能を、或いはアウラを突出した人間から掠め取り、食い物にし、その残骸を「お友達」感覚で賞味するという恐ろしい生き物(P.64)

彼の大衆批判はそこかしこに読み取ることができますが、このくらいで良いでしょう。強烈な批判ではありますが、私は「価値切下げ」という部分に、首肯できる主張を感じます。

さらに宮下氏が指摘した「アウラ(オーラ)」とは何でしょう。所謂「カリスマ性」みたいなものとして氏は定義していません。そういうものではなくて、観念論的伝統とそれに対する敬意と畏怖であるとしています。難しいですね。しかし、この部分も、おそらくは氏の主張の根幹をなす部分でしょうから引用してみますと、

それは音楽を語ることを挫折させるまさにそのもの、神秘的な、エーテルのような、あることを証明することは到底不可能だが、決してないわけでは「なさそうな」、曰く言い難い、神秘的な「何かあるもの」であり、ベンヤミンが複製技術時代には失われることを予言した(P.119-120)

ものが氏の言う「アウラ(オーラ)」だとします。カラヤンにはそれが全くないのだと。

これはいわゆる、「芸術解体」ということに繋がる大きなテーマです。今の世にあって、もはや「芸術」という言葉は、死語か悪い冗談にしかなりません。日常の中から「芸術」という言葉が排除されはじめたのは、私の記憶では80年代中頃ではなかろうかと思います。「芸術」は「アート」という言葉に置き換わり、サブカルチャーなるものが台頭してきました。そして、この頃から大衆の「欲望」があからさまに「拡大再生産」されるようになり始めたように思います。もしかすると、ここが氏の一番大きな批判の論点なのではなかろうかと思うのです。

宮下氏の「西洋音楽」に対する考え方は、いまをもっても精神芸術的あるいは哲学そのものとして捉えているようです。つまりこういうことです。音楽は悟性の歓びでもあり得るし、認識の歓喜でもありえるものととらえ、悟性による認識を通じて音楽を、いわば主体的、積極的、自覚的に聴く~そのような聴き方を聴き手に迫っている(P.34)ものであるとしています。宮下氏は、音楽全般の価値が生み出す「美」や「慰め」や「癒し」こそ悪い冗談(P.277)であり、

悪い冗談に無自覚に感動し、音楽とは良いものだ、と安閑として日々を送っているのが今日の音楽鑑賞のあり方だとすれば、それは根本的に間違っている(P.277)

と最後まで、聴き手をも断罪しまくります。

氏がカラヤンの対極として、クレンペラーとケーゲルを上げていることは、私にはさほど重要なこととは思われません。ここを強調すると、いわゆるクラヲタ系批評家と変らなくなりますし。

宮下氏は1961年生まれですから、私と同年齢。その氏がかくも現代社会と今を生きる大衆文化に深く絶望していること、そのことにこそ、私は驚き、そして自省の念を覚えます。確かに氏の指摘をそのまま受け入れるならば、私たちは他人や世界の痛みを遠ざけられるような愚昧な情報に溢れており、それゆえ利己的かつ狭小な世界に閉じこもり、無自覚とイノセントであることを当然のこととして、快楽的、享楽的に生きていることになります。

これらの原因を、全て「カラヤン」に象徴することには、かなり無理があるものの、彼が「カラヤン的なるもの」として批判したものに対して、自覚的になることは重要であろうとは思います。ただし、この手の自己批判は、全て自分が受け入れる必要があるだけに、アクションとして結びつかない限り、最終的には自己矛盾と自己欺瞞に行き着くため厄介です。

いずれにしても氏の嘆きと希望がどこまで伝わったかは、はなはだ疑問には思うところです。このように考えると、本書のタイトルさえ誤解を招くものであったと思わざるを得ません。

2007年3月7日水曜日

中川右介:カラヤンとフルトヴェングラー


私は現在本書の感想を、フルトヴェングラーの1947年5月25日、ベルリン復帰コンサートのCDを聴きながら書いています。本書ではティタニア・パラストは開演前から異常な熱気に包まれていた。切符を正規のルートで買えた幸運な人、ダフ屋に法外な金額を払って入手した裕福な人、家具を手放してでも聞きたいと思った熱狂的な人・・・・・・二千人の観客は、その時を待った。(p.159)と書かれている、いわゆる伝説の演奏のひとつです。ファンには特別の思い入れがある演奏なのだと思います。

私はフルトヴェングラーの同曲異演と比べるほどには熱心ではありませんが、それでもベートーベンの「運命」の迫力には改めて圧倒されてしまいました。

中川氏はあとがきで次のように書きます。

音楽を聴くのに、その演奏者についての情報は不要だ、純粋に音楽を聴くべきだ、という考え方がある。もっともな意見ではあるが、私はそうは思わない。(中略)そう思って聴くのと、そうでないのとでは、感動の度合いがまったく違う。(P.307)


この考え方には異論もあると思うので今はこれ以上突っ込むつもりはありません。私は1947年の演奏を聴きながら、本書の内容を感慨深く思い出し、そしてやはり涙ぐんでしまいました。音楽が純粋に持つ力以上のものを、意識的にせよ聴きとってしまいます。


本書は「クラシックジャーナル」に連載されていたものを全面改稿したものらしく、最近の「の★だめ」によるクラシックブームを当て込んでの本ではなさそうです。それであっても「の★だめ」を卒業し少しヒストリカルな音盤を漁る人であれば、いずれは目にするであろう逸話を、戦前から戦後のひとつの時代にかけてシームレスに読むことができます。


内容はカラヤンとフルトヴェングラー、そしてチェリビダッケの3名に焦点を当て、権力闘争と人間模様を書くという筋立て。三人の指揮者の音楽観については全く触れていません。マニアには重大な、しかし一般リスナーには些細な(あるいは無意味な)評価(=私観)を排しています。そのため本書はクラシック音楽にあまり親しんでいない層にも面白く読むことができ、作者の意図は成功していると思います。すなわち権力闘争やゴシップ好きな、そして華やかな世界の舞台裏の世界を覗き見たいという、人の持つ下種で多少悪意に満ちた、しかしごく自然な好奇心を十分に満足させてくれます。


ただし三者の描出の仕方は比重としては圧倒的にフルトヴェングラーが重い、そして、フルトヴェングラーの優柔不断さにと政治的無知さについては、結構厳しい口調での批判を込めています。チェリはここでは「実力はあるけどイヤな奴」としか読めない(笑)


中川氏はあとがきで、登場人物の言動はすべて文献資料で確認した事実に基づいているが、人々の内面、感情については、想像して書いた部分がある、感情や心理はひとつの解釈にすぎないと書きます。私は、敢えて作者が主観を持って書き上げたことで非常に興味深い「物語」を描出できたように思えます。すなわち「帝王」という存在が生まれた「物語」を。


カラヤンがフルトヴェングラー生きている間はもちろん、死した後も伝説と闘わなくてはならなかったとする論には考えさせられます。そして現在の三者に対する評価を考えると、中川氏ならずとも歴史の皮肉を感じるとともに、一時代の恐ろしくもすばらしい才能の開花に身震いさえ覚えます。

最後にしつこいのですが、再び中川氏の言葉をあとがきから引用しておきます。

「人柄のいい人」の、「お上手な演奏」など、聴きたくない。すごいものを聴かせてくれるのなら、どんな悪人でもいい

確かに私が聴きたいのは(いつもというわけではないにしても)感動させてくれる音楽です。人間性と音楽などと論じるのは野暮なことなんでしょうか。

2006年8月7日月曜日

エスクァイア 9月号~発見、クラシック音楽


「エスクァイア 日本版 9月号」が「発見、クラシック音楽」と題して、かなり本格的な特集をしていることをいくつかのブログで知りました。書店で立ち読みしようと思ったのですが、これが本当に、かなり詳細にしてマニアックな記事であるため、思わず購入してしまいました。

雑誌の詳細な紹介は他のブログに譲るとして、私が本記事を読んで感じたこと。時代はおそらく新たなクラシック・ファンを求めているのではないか、ということ。


記事の特集が「ロシア・ピアニズム」「古楽」「「オペラ~グラインドボーン・オペラ・フェスティバル」という組み合わせ。今年流行の「モーツァルト」は敢えて言及を避け、夏オペラのワーグナーは一顧だにせずというスタンスはなかなか見事です。

オマケCDの最初の曲、《バッハの二つのヴァイオリンのための協奏曲からアレグロ》が流れた瞬間に、私は「やられた!」と思ったものです。だって、理屈ぬきにカッコいいんですもの。おそらくはクラシックに馴染みのない人も、スピーカーから音が出た瞬間にハッとし、思わず作曲家を確かめて、もういちど愕然とするに違いありません。この軽快な曲の後がシャルパンティエだなんて何て素敵な。

「エスクァイア」は男性雑誌のハズですが、これは極めて女性的な選曲と企画。というか、このごろは男性も随分と女性化しましたから、いわゆるジェンダー・フリーな感覚なんでしょう。

クラシックは快活にしてカッコよく、どこか教養的、貴方をワン・ランク上に仕立ててくれます。先鋭化された感覚の表現や究極のヒーリングを志向することもできますし、ロマンティシズムや貴族的豪華さや退廃さえも体現しています。オペラに限らずクラシックにエロティシズムを感じてしまったら、おそらくはどんな娯楽も適いますまい。眉間にシワを寄せて眼をつむり手を振りながら聴くなんて野暮ヤボ。

雑誌の編集後記に「えんぴつで奥の細道」というベストセラーを取り上げて、下記のような対話がありました。

●歳とってくると、古典とか読んでないとっていう焦りみたいなものがある。源氏物語ちょっとしか読んだことないな、とかね。暇ができればできるほどそう思う。これなら、読まなきゃいけないと思っていたものが読めて、字も上手になるし、人生も豊かになるし。

●それって結局、暇だってこと?

自分が歳を取るほどに暇になってきたという実感は全くありません。しかし日本人総体で考えると膨大な「消費しなくてはならない時間」だけは増大してきているのだろうなと。その隙間にクラシック音楽もある位置を与えられるのではなかろうかという予感だけが。

2006年4月27日木曜日

芸術新潮の武満特集がうれしくて、不良少年に涙する



帰宅途上に書店に立ち寄ったら、「芸術新潮」が「はじめての武満徹」と題する特集をしている。何故に「芸術新潮」が武満なんだ?と訝りながら紙面をめくったところ、東京オペラシティアートギャラリーで開催されている「武満徹-Visions in Time」展にちなんだ特集であるらしく。本誌の内容も「武満徹(以下TT)がいる」「TTをきく」「TTをみる」「TTをうたう」「TTをたべる」「TTをまとめる」とコンパクトで多角的な企画。表紙の和田誠のイラストがまた懐かしくとてもイイ感じ。

武満徹は未だに私には縁遠い作曲家なのだが、アタマの痛さも忘れて何だかワクワク。立ち読みをするのももったいない気がして早速に購入。帰宅してパラパラと写真を眺めるにつけ、武満ってのは音楽家を越えた「ひとつの時代」であったのだなあと、根拠もなく思う。たいして聴いてもいないのに、ぜんぜん親しんでもいないのに、武満徹の周辺のことを知るだけで、多少スノッブ臭いところはあるけれど、どうして優しい気持ちにななるのだろう。ヒーリングという軽いものではないのに、どうして癒されてしまうのだろう。

iTunesで取り込んでおいた「不良少年」を荘村さんのギターで繰り返し聴く。本作品は羽仁進監督の同名の映画(1961)で使われた音楽、どんな映画なのかは不勉強にして知らない。3分40秒の短い曲だが、音楽にはとがったところが、どこにもない。心の深いところに、じんわりとしみわたる。あんまり何度も聴いていると泣けてくる。

以下はテキトウに描いたもの。

2006年2月25日土曜日

岡田暁生:「西洋音楽史」を読んで

一部で話題(こことか ここ)の岡田暁生著『西洋音楽史』(中公新書)を読んでみました。

新書で西洋音楽の中世から現代までを俯瞰するなど、随分と乱暴な企画だなと最初は思ったのですが、読んでみますとこれが実に面白く、私にとっては西洋音楽というものにくっきりとしたパースペクティブを与えてくれる内容でした。左帯にあるように、まさに「流れを一望」です。

読んでいて、いたるところで成る程と思い、いかに私がクラシックファンを自認していながら、何も知らずに音楽を聴いていたのかということを思い知らせてくれました。

本書ではバッハやモーツァルト、ベートーベンなど教科書的に偉大な作曲家に多くの頁を割くことはしていません。「西洋音楽という大河」の流れの中で、彼らがどういう意味をもっていたのか、なぜ彼らのような音楽が生まれたのか。それを時代背景などを絡めながら、実に簡潔に示してくれます。

記述の仕方に説明不足や決め付けのようなものを感じる部分もありますが、それは新書という制限の中では仕方のないこと。むしろ筆者が「あとがき」で書いているように、音楽の専門家ではなく一般読者が音楽史の大きな流れを理解できるような本にしたかったという意図は、見事に成功していると思います。巻末には豊富な「文献ガイド」がありますので、本書を契機にテーマを深めることも可能です。

本書は知識を問い直すとともに、音楽の聴き方も問い直してくれます。すなわち、何も知らずに音楽を聴いていたどころか、いかに「一面的」な音楽の聴き方に自分が硬直してしまっていたのか、ということにも気付かされるのです。音楽の聴き方は、おそらくは自らの嗜好の反映ではあるものの、一方においては日本の音楽教育や西洋音楽受容の歴史にも影響しているのだろうと思い知らされます。

岡田氏は中世のグレゴリオ聖歌から現代のポピュラー音楽までを、連綿と続く「楽譜として設計された音楽」である西洋芸術音楽を語り、第七章「二○世紀に何が起きたのか」の次の言葉で締めくくっています。

カラオケに酔い、メロドラマの映画の主題歌に涙し、人気ピアニストが弾くショパンに夢心地で浸り、あるいは少ししか聴衆のいない会場で現代音楽の不協和音に粛々と耳を傾ける時、人々はどこかで「聖なるもの」の降臨を待ち望んでいはしないだろうか? 宗教を喪失した社会が生み出す感動中毒。神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。ここには現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候が見え隠れしていると、私には思える。 (P.230)

筆者は、無意識的であるにしても宗教的なもの(人間を超えた絶対的なものへの寄与)が人間に必須であるとの前提に立っているようにも思えますが、ここだけは安易に首肯できない部分です。というか、数行で決め付けるには大きすぎるテーマですので。

2006年2月10日金曜日

備忘録

メモしておかなくては忘れてしまうもの。
  • アルテミス弦楽四重奏団:リゲティの弦楽四重奏曲 情報元
  • 吉田秀和:くりかえし聴く、くりかえし読む 情報元
  • 小泉浩:海へ~現代日本フルート音楽の諸相 情報元
  • クーベリック:1969年ライブ録音による「運命」 情報源
  • 星川清司:『小村雪岱』 1996 平凡社 情報源
  • 岡田 暁生:西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 情報源

2006年2月3日金曜日

モーツァルト本

今年はモーツァルト・イヤーということですからCDショップに行きますと、モーツァルトの「有名なところ」だけ集めたCDが山積みだったり、モーツァルトのコーナーができています。昨年の「のだめブーム」や東芝EMIの「ベスト・クラシック100」のヒットなどもあり、(どうみても普段はクラシックなんて聴きいていなさそうな)若者たちも、それらのCDを手に取ったり視聴しているのを目にすることができます。

クラシックの裾野が広がる意味では喜ばしいことだわいなあと素直に受け止め、しかしモーツァルトはどうして世界中で「フィーバー」になるのだろうか、考えてしまいます。

少し古いですが「音楽の友 1月号」では海老澤敏氏が『後世に受け継ぐべき「鳴り響く文化財」』と題して特別寄稿されていました。海老澤氏もシューマン歿後150年、バッハ歿後250年などと比較しても、モーツァルトがまさに異常ともいうべき扱いを受けていると書いています。氏は日本におけるモーツァルト研究の第一人者ですから、モーツァルトの商品化やメディアの情報供給からくるモーツァルト像の歪曲化などを危惧しながらも、モーツァルトという奇蹟の文化財を後世に受け渡してゆくことを切に願っています。

従来からの研究者やファンも同じような思いかも知れませんが、モーツァルトがここまで「商品化」されるほどに人気なのは何故なのでしょう。以前も少し触れましたが、昨年から4冊ほどモーツァルト関係本を読んでみました。

  • H.C.ロビンズ・ランドン:モーツァルト 音楽における天才の役割(中央公論社)1992年初版
  • 井上太郎:わが友モーツァルト(講談社現代新書)1986年初版
  • ピーター・ゲイ:モーツァルト(岩波書店)2002年初版
  • 井上太郎:モーツァルトと日本人(平凡社新書)2005年9月初版

今までモーツアルトはあまり馴染まなかったのですが、彼の生涯は非常にドラマチックであり、多くの研究者の興味をそそらせる存在であることは、4冊の本を読むだけで改めて知ることができました。最初の2冊は1991年、モーツアルト歿後200年の時に購入したものの再読。絶版本のようですが、わざわざ探して読むほどではないと思います。(同類の書は他にもあるだろうと思われる故)

ピーター・ゲイ氏の本は、手紙からの引用を豊富に用い、モーツァルトと父親の関係に重点を置いて記述している点で一読の価値があります。最近出版された井上太郎氏の本は、「モーツァルトへの愛」が紙面から溢れるばかりで、モーツァルト愛の薄い私などには、ちょっと辟易するところもある文章です。なぜ「日本人」はモーツァルトが好きなのか?ではなく、「私はかくもモーツァルトが好きである」というモーツァルトに耽溺したごく私的な心の軌跡を、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平、吉田秀雄、遠山一行を引用しながら吐露した本です。ああ・・・吉田秀和氏の初期のモーツァルト論でも再読したくなりました。


2005年11月3日木曜日

許光俊:「オレのクラシック」

今更、許センセに教えを請わなくても良いような気もするのですが、HMVの解説はついつい読んでしまいますし、どんな面白い演奏が発売されているのか気にもなりますので、題名につられて買ってしまいました。

「オレ」のとわざわざ書いているように、許氏の好み全開であります。今までの本でさえ一般向けの大衆迎合的なところがあったのだそうです。また一般向けでない本を求める声も大きくこの際だから、クラシックに限らず、あれやこれや書いたのだそうです。本書の大半を占める「オレのCD」はHMVのサイトに掲載された文章がベースで目新しくはないのですが・・・

許氏の少し偽悪的な文章は非常にストレートであり、「まずいものは、まずい」的に感覚的です。「○○の演奏を聴くと、この曲が△△であったことが良く分かる」というような書き方も多く一読して成る程と納得してしまうところがあるのですが、事はそう単純ではないはずです。彼が「オレが認めない指揮者たち」として例に挙げるラトル、ヤコヴス、ヘレッヴェッヘ、ゲルギエフ、アバド、シャイー、マカールなどにも賛否ありましょう。

しかし、どうしてこういう「過激さ」や「分かりやすさ」や「単純さ」を評に求めてしまうのでしょう。この傾向は何かに似てはいないかとふと考えます。現実世界があまりに混沌としている故の逆説なのでしょうか。音楽界においては、商業主義のオブラートにまみれた愚にも付かない音楽評や、専門家しか分からない用語の羅列による解説(このごろ余り見ない)のため、ホントウのところが見えなくなっているということなのか。こういう本が求められる背景こそが音楽界の問題なのかも知れないとは思うものの、所詮「音楽」のことですから深入りは止めます。

付記するならば、この本で気になったのは、実は「クラシックの未来」と題された一文です。許氏はオレはクラシックはもう滅びたと思っていると断言します。普遍性、真実、真理、理念、理想・・・・・・そういったクラシックを支えていた概念いまやウソっぽいものとなった、あるいは現代では、そもそも、ウソをつかなくても生きていけるようになったため、近代の生み出したクラシックは、突然、古くなってしまったと説明しています。

かなりの論理的飛躍で結論だけ書いていますが、もしそうだとするならば、クラシック音楽のみならず、(許氏が前提とする)近代的な概念が崩壊しつつあることを示唆しいます。あらゆるものが変質していることになり、こと「オレ」のだとか閉鎖的なことを書いている場合ではない、と一瞬思ったのですが、

それら(普遍性とか真実とか、真理とか理念とか)はウソとまでは言わないにしても、一部の人にとってしか、正しくないことがはっきりした。別の人間は別の真実や理念を持っている可能性も明確に意識されるようになった。これはやっぱり、進歩と言って言いすぎなら、次の段階に進んだというべきではないのか?

ということは、あからさまな「オレ様主義」の台頭であるということです。時代の変化を、仮にも大学教授がこんなにサラリ書いてしまっていいものかと思うと同時に、ホントウにそうなのかという疑念も生じるのでした。

許氏のその他のCD評については、特にどうということもなし、いくつかは(是非)購入したいなとは思っていますが。

2005年9月15日木曜日

中野雄:「丸山眞男 音楽の対話」


著者の中野雄氏は54年東京大学法学部にて丸山を師と仰ぎ、その後オーディオメーカーに入社、ケンウッド会長、常務取締役などを歴任、音楽プロデューサーや昭和音楽大学講師などもされている方と裏表紙の著者紹介にあります。そんな中野氏はもっぱら音楽談義を通じて丸山と半生を共にし、交流の中で得られた丸山氏の音楽観や思想の根底に流れるものを描き出しているのが本書です。

読んでいると、中野氏の丸山氏に対する深い敬愛と思慕の気持ちが溢れるばかりです。まさに彼の生涯のメンターの一人であったのだろうなと思われます。それ故に、本書に描かれる丸山氏の実像は、思想史家としての丸山眞男ではなく、まさに音楽に没頭し、音楽にまみれていることを至福とする、ひとりの音楽愛好家のいじましいまでの姿であります。しかしその姿は単なる愛好家というレベルを遥かに凌駕した洞察力を秘めており正鵠を射た批評には驚くばかりです。

この本には「丸山眞男」というものに代表される難解さは微塵もなく、読後の素直な感想としては「ベートーベンでも聴きなおしてみようかな」とか「丸山の本でも紐解いてみようかな」というものでありました。それほどまでに「音楽」に対する魅力と「丸山氏」に対する愛情が充満した本です。

丸山氏は日本の政治思想史において重要な足跡を残した思想家ですから、政治と音楽との関係について言及しないわけにはいきません。したがって本書では「第一部 ワーグナーの呪縛」「第二部 芸術と政治の狭間で-指揮者フルトヴェングラーの悲劇」として多くのページがナチスドイツ時代の音楽家や演奏に頁が割り当てられています(というかプロローグとエピローグ以外はこの二章しかない)。

フルトヴェングラーとドイツの関係については、Coffee Breakでも軽く引用しましたが、実存にまで関わる深い問題が横たわっています。第二章の最後にフルトヴェングラーの演奏がナチス・ドイツの支配下、しかも戦況不利な極限状態で「最良の姿」を見せたことについての二人の対話、

(中野)「でも、あんな悲劇的な状況と、悲惨な経験を抜きに最高の演奏が生まれないとしたら、<音楽>とはいたい何なんでしょう」
短い沈黙があった。丸山の言葉は、私の問いかけに対する答えではなかったような気もする。
(丸山)「人間の本質にかかわるテーマですね」
返って来たのはそのひと言であった。静かな、何かにじっと耐えているような丸山の口調であった。(p.234)

この部分は、本書の全てを言い表している部分かもしれません。いったい、私は丸山氏が聴いたものと<同じ><音>を、同じ<音楽>を聴いているのだろうかと、自問せずにはいられませんでした。

2003年5月4日日曜日

許光俊の「世界最高のクラシック」


許光俊氏という音楽評論家を好きか嫌いかは別として、非常に哀しい本だ。何故哀しいか。彼の悟りが哀しいのだ。

それは「あとがき」に書かれていた彼の、クラシックに対する姿勢だ。『あえて「世界最高」という言葉を冠したこの本を書こうと思った本当に大きな理由は、クラシック音楽がすでに博物館入りしたと私は認識しているからだ』(P.244)と彼は書く。自らそれを『寂しい考え』と認めてはいるのだが、許氏にしてかと思ってしまうのである。

考えてみると、許氏は過激な文章で知られてはいるが、宇野氏のような耽溺型ではなく、クラシックとある距離を保っているところがなきにしもあらずだ。許氏は彼自身言うように「音楽ならば何でも良い」というタイプではなく『「まあまあ」が我慢できず、「最高」だけを欲しがるようなわがままな人間』(P.5)なのである

彼がこのように考えるのが、クラシック音楽が過去のものであるが故に、これからいくらでも「最高」のものが手に入るような、同時代のものではないということの査証だとするならば、私の焦燥感は募る。「博物館入り」したものであっても、過去の演奏には玉石混合、膨大な録音の山が存在しており、その中から自分にとって好ましいと思える演奏に邂逅するのは至難の技でもあるわけだ。

許氏が「最高」と認める指揮者や演奏がどのようなものなのかは、おおよそ許氏の著作に通じている方なら想像がつくだろうが、この本では指揮者を5つのタイプに分類して語っているところが面白い。すなわち

「ナイーブ時代の大指揮者たち、または古典主義的幸福」
「現代にあってなお幸福な指揮者たち、または擬古典主義の平和」
「普遍化を目指した指揮者たち、または20世紀が夢見た美」
「エキゾチックな指揮者たち、またはコスモポリタンの喜び」
「懐疑に沈む指揮者たち、またはマニエリスムの廃退と人工美」

それぞれの分類に、どの指揮者が入っているのか、読む前に想像するのも楽しいものではある。さあ、許氏の文章を読んで、彼の示す「最高の演奏」に耽溺しようではないか(^^) クラシック初級者のワタシは、彼の示す盤のほとんどが未聴という、幸福な状態であったことだけは付記しておこう。

2003年4月17日木曜日

鈴木淳史の「クラシック批評こてんぱん」


鈴木淳史(あつふみ)は1970年生まれの「フリー・ランスの売文業」とある。クラシック関係の共著も洋泉社から出しており、いわゆる「クラシック音楽の批評」をする人らしい("らしい"と書くだけあり、私は彼を知らなかった)。

さて、この本は「クラシック音楽の批評」をいかに読むかということを述べた本で、音楽そのものについて書いているわけではない。「なんてつまらない本」と思うなかれ。普段から「クラシック音楽の批評」とか「音楽評論」というものに胡散臭さを感じている人こそ、楽しんで読めるのではないかと思う。文体も軽く読みやすい(逆に読みにくいという気もするが)。

ここで鈴木氏の視座につて述べる積もりはないが、かの小林秀雄の「様々なる意匠」の中から批評の対象が己であると他人であるとは一つのことであって二つのことではない。批評とは竟に己の夢を懐疑的に語ることではないのか!という部分を引用し、客観が皮をかぶった主観だとしたら(その事実だけで、いかがわしいでしょ?)、主観そのもので、物事を判断したほうがいいのではないか、ということだ。(P.106) と主張するところに、彼の「批評」に対するスタンスが現れているように思える。

そもそも私は、この国においてもかの国においても「音楽評論」「音楽批評」というものが成立しているのか、ということが疑問でならない。そういう点で「評論家じゃない症候群」および多様化する批評家たち(P.144)のなかで、かつて音楽評論家と呼ばれた人たちが、自らを「評論家」とは名乗らないということをはからずも鈴木氏も指摘している。そしてなぜ彼らは、音楽評論家という名前を忌避するのだろうと問題をなげかけ、それは「音楽評論」または「音楽批評」のイカガワシサに耐えられなくなったこと。(中略)自分のやっていることが対応していないという恥じらい(中略)、自分たちの先輩格に当たる評論家(中略)は、本当に批評というものをやっているのか、という疑問があるようだ。(P.146)と指摘している。

では鈴木氏は「音楽批評」を否定しているのか、あるいは音楽評論についてどのようなスタンスをとっているのか。彼の対象と距離の取り方、そしてどことなくはぐらかすようでいて、その実裏に真実を込めた文体からそれを読み取るよりも、彼が音楽について書いたものを読むのが適切かもしれない。(だってそれを書いたら、また引用だらけになってしまうから)

え?私の書いているもの? それは単なる感想文に決まっているぢゃないですか(-_-)

2003年4月1日火曜日

新しい音楽雑誌の登場~クラシックジャーナル


��月から東京勤務になった。住んでいるところが池袋に近いので、さっそくメトロポリタンプラザ6階のHMVに脚を伸ばす。ここはクラシックファンにとっては天国のようなCD店である。クラシックコーナーが完全に他のジャンルとは独立した大部屋になっており、そこにきちんと整理されたCDが目もくらむばかりに収蔵されている。クラシックコーナーが独立しているということは、ジャズやらポップスのBGMを聴きながらCDを選ぶ苦痛や、何度も同じ棚の前をウロウロしていて、他の人から疎んじられるプレッシャーから開放されるということである。これを幸せと言わずになんといおう>ヲタクが入ってきたなあ・・・(^^;;;

さて、そのHMVでかねてから話題(^^;;の本をみつけた。アルファベータという会社から創刊された「クラシックジャーナル」という雑誌である。石原俊氏が主筆ということで全196頁のうち実に石原氏が150頁も書いているというおどろくべき編集方針の雑誌である。石原俊氏は1957年生まれの翻訳家かつ随筆家とある。音楽、写真、メカニズムに造詣が深く評論などを各専門誌で執筆しているとのこと。

その内容は「新譜ディスク100徹底ガイド」(これだけで101頁ある)というCD評が中心のものである。評は2002年10~12月(四半期)に発売された新譜。クラシック不況の時代といわれても四半期で発売される新譜は膨大なものになろう。それを100に限定しているのだから石原氏の主観が色濃い雑誌ということが前提になっている。マニアによる雑誌版のクラシックレビューサイトといった趣。それ以外の内容は右の表紙のとおり。木之下晃氏のアーカイブスは32頁にもわたり、これだけでも保存もの。

年4回の発行を目指しているらしい。くしくも「クラシックプレス」が創刊後12号で休刊、また以前は「グラモフォンジャパン」がこれまた創刊後12号でゲネラルパウゼをむかえた。クラシック受難の時代にあって、このようなマニアックな雑誌が果して受け入れられるのか、値段も1200円と高いのか安いのか分からない設定であるが期待したい。(ちなみに「クラシックプレス」も「グラモフォンジャパン」も定期購読は全くしておりませんでした・・・あ、「レコード芸術」も・・・です)

2001年12月20日木曜日

MOSTLY CLASSIC 12月号に札響の特集

MOSTLY CLASSICの12月号に「札響の英国ご機嫌よう」という特集記事が掲載されている。かなりのページをさいての紹介である。

 「札響旅日記」と称する記事は、自らのHPも作成されている真貝(ティンパニ)さんが文章を、写真は荒木(チェロ)さんほかが撮影されたもので構成されている。両氏のHPで英国公演の様子を読まれているファン諸氏には目新しいものはないかもしれないが、こうして記事になっているものを読むとまた格別ではある。指揮者尾高忠明や札響の白鳥専務理事のインタヴューなどもあり読み応えがある。

 今回のツアーは米国のテロでもめたほか、金銭的にもイロイロな問題を抱えているのだろうとは思うが、海外での演奏が、札響のひとつのステップになったことは間違いないのだろうと予想する。田中良幸(MOSTLY編集長)の記事によると、「ホルンのズッコケぶりも目立った」らしい。もっとも彼はそれを否定的に書いているのではない。尾高の言葉にもあるが、この演奏を通して札響が自分たちの音や演奏をどう見つめなおしたのかということが一番重要なのだろう。

 残念ながら、英国公演後の札響の演奏をまだ聴けてはいないが、そこに何か違った音を聴くことができたとしたら、こんなにうれしいことはないと思う。実際に金曜日の定期公演を聴かれた方はどういった感想をもたれただろうか。

2001年5月22日火曜日

「クラシック道場入門」(玉木正之)を読む



標記の本を読んだ。帯にあるように五木寛之氏は「戦後半世紀、音楽について正しいことを正直に語った日本人が三人いる。武満徹、五十嵐一、そうてもう一人がこの本を書いた玉木正之さんだ。」という褒め様である。

「ベートーベンなんてブッ飛ばせ」に始まり、「生涯青春を謳歌した超ゴーマン男=R・シュトラウス」、「イタリアが生み出した最高級の演歌師=ヴェルディ」など、「斬新」な切り口でクラシック音楽を紹介してくれている。クラシック音楽は権威に満ちて偉いものという偏見のあることを前提に、そんなことはないのだ、大人も子供も楽しめる音楽なのだよと啓蒙してくれる。

内容は分かりやすく面白い、それこそあっという間に読んでしまえる。五木さんの言うように「斬新」とも言えるし、作曲家に親しみを感じるように書かれている。その点は非常に良い本だと思う。

オペラはほとんど聴かないので、ワーグナーやプッチーニ、ヴェルディの章は「なるほど、そうなの、そういうもんなの」と納得しながら読んだし、今連載中のシベリウスの章などは、面白い考え方だと感心したものである。モーツアルトの「軽いとか深いのか分からない=そういうことを超越している」という主張も納得のゆくものだ。このように、言っていることは正く聞こえる、演歌もロックもクラシックもジャズも垣根なんてないという筆者の熱い主張もよく分かる。実際私もクラシックばかり聴いているわけではない。

しかし、気になる点もある。「私はすべてわかっちゃったんだもんね」というような上から目線が、クラシック音痴の読者に対して受け狙いでクラシックを説いていたり、偏狭なクラシックファンを揶揄するみたいな部分だ。自分の娘(10歳)が「モーツアルトはエロい」と言って、クラシック会場に訪れていた御夫人の目を白黒させる様を喜ぶというのも、悪趣味という気もする。筆者は「クラシックは偉い、権威主義だと世間で思われている」と繰り返すが本当にそうなのだろうか?クラシック好きは変人扱いされることは認めるにしても。

文中の引用なども出典を明らかにしながら書き進めているので、非常に神経を使って書いていると思うし、数多くの文献に接しているところは、さすがに文章を書くことを生業としている人は違うと思わせる。でも「音楽の本質がオレには分かっている」という態度はやはりいただけない。

別にクラシックが嫌いじゃない人や私のように了見の狭い人は、改めて読む本じゃなかも知れない。もっとも、私はオペラは全く聴かないので「オペラ道場入門」という続編は読もうと思っているのだが。