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2006年1月27日金曜日

なんでも「市場原理主義」が悪いわけではなかろうに

ライブドア堀江氏の逮捕についてマスコミや識者が色々書き始めています。1月25日の読売新聞では「国家の品格」の著者である藤原正彦氏が、今回の事件を生み出した現在の日本の姿について持論を展開されております。

市場原理主義が経済学の中でどどまっていれば、まだいい。(中略)ところが市場原理主義は、人間の価値基準、行動基準まで書き換える。それが恐ろしい。

市場原理主義の広がりによって、日本は世界でも特異な国柄を捨てつつある。成果主義に追いまくられ、雇用が安定せず、人間を幸福にしない社会にしている。

市場原理主義によって情緒という日本人の行動基準、特に弱者に配慮する"惻隠の情"が根こそぎやられた。

実はまだ「国家の品格」は読んでいないのですが、この言説によって凡その主旨は掴めました。藤原氏が「市場原理主義」をどのようなスコープで使っているのか不明なのですが、一企業に身を置く立場からは、感情的に理解する点はあるものの、「市場原理主義」が全ての弊害ではあるまいにと考えます。

この問題は、資本主義に換わる大きなパラダイムシフトや「幸福論」を示唆しますので簡単な問題ではありません。藤原氏の提唱するのは、グローバリズムや自由を制限的に考え「武士道」精神の復活ですが、それが日本「国家」の品格につながるのか。現代の日本を憂慮する気持ちは伝わってきますので、全否定しているわけではありません。ただ傾聴すべき点は多いものの、議論がストレートすぎるなと。

さて、議論を縮小して「多様さ」を前提に考えを展開しようとしたとき、今の日本には「幸福感の多様さ」を受け入れる土台が出来ていないように思えます。「多様さ」を受け入れることは、「選択」と「選別」も避ることができず、「多様さ」の結果として「結果の不平等」を是認する以上、システムとしては「機会の平等」の整備も必要となります。そういう点からは政府の役割や企業、NPOなど組織の存在価値について、もっと議論されても良いと思います。

「国家の品格」という本は、おそらく買わないだろうなと。大新聞のコラムで大きな問題を簡単に結論づけてしまうような態度に藤原氏の「思い」先行の危険性を感じますし、最近の新書のレベルと品格は、著者の品格や主張とは無関係に、一昔前に比べて随分と低下していると思いますので(>ムカシに比べて、値段の割に文字数が少なくて内容が薄い・・・気がする)。

2004年7月30日金曜日

国旗や国歌に関する軽い話題


最近は下火になってきましたが、国歌、国旗について議論が百出です。日本の場合、国歌や国旗に問題があるから新しいものにしようという動きがなかなか出てきませんよね。逆にモンク言っても愛着があるのかなと。

「拍手は指揮者が手を下ろしてから」というサイトで、新ロシア国歌の浸透度というエントリーがありました。これには、

大国意識を国家発展の原動力にしたい大統領は、3年前、旧ソ連国歌に新歌詞を付け復活させた。だが、ある調査によると、歌詞を知っている者は「30人に1人」とされている。

という新聞記事を引用しながら、サッカー欧州選手権に国家演奏中にガムを噛んでいる選手にプーチン大統領が苦言を呈したということなのですが、まあ、そんなものでしょう、と私など思ってしまいます。国家が押し付けたって、愛着がなければガムでも噛んでます。

一方、田中宇の国際ニュース解説の最近の記事「キリストの再臨とアメリカの政治」においても、イラクの国旗のことが紹介されており、

昨年からのイラク戦争では、米占領軍政府が、キリスト教右派勢力に対するイメージ戦略ではないかと感じられるいくつかの政策を行っている。その一つは、今年4月末に制定されたイラクの新国旗である。この国旗は、白地に青色の三日月が描かれ、その下に2本の青・黄・青の順番に3本の線が入っているもので、イラク人たちは「イスラエルの国旗を想起させる」として猛反対した(イスラエルの旗は白地に青色の星が描かれ、上下に青線が入っている)。

と書いています。

このように、国旗も国歌もプロパガンダとして利用する格好のものなんですから、やっぱりまともにお上の言うことなど聞いていられないと考えるのは「反日」ですかね? 日本の出るサッカーで高らかに「君が代」が斉唱されていますが、やっぱり私には、あまり気分のいいものではないですね。つーか、節がしみったれてんだよな。

じゃあ、新しい国旗や国歌をつくろうとは誰も言わない。結局は何かのアイデンティティは欲しいけど、今のものもモンダイあるけど、ま、いいかというところなのでしょうかね。






2004年6月18日金曜日

アメリカの国旗が持つ意味

NHKスペシャルで「21世紀の潮流 アメリカとイスラム」という2回シリーズが放映されています。第1回はイラク人虐待のモデルともいわれるキューバのグアンタナモ収容所とイラクとアフガンに挟まれながら反米姿勢を崩さないイラン革命25年目の素顔に迫るものでした。

グアンタナモ空軍基地にある収容所は悪名高い収容所で、アメリカの国内法も国際法も及ばない場所です。ラムズフェルド国防長官も「彼らを法のもとに裁こうと思っていない、テロを未然に防ぐために疑わしき者を収容しているのだ」と言って憚りません。

番組では、ある日突然失踪した息子が、実はグアンタナモに収容されていることを知ったレバノン人の父親が取材されていました。父親が一枚の写真を取り出して語ります。写真はテロ被疑者がアメリカ軍に捉えられ、グアンタナモに輸送される飛行機内で撮られたものでした。被疑者数十名は覆面をされ、手足を縛られ、ロープのようなもので壁に固定された状態で、軍用機の冷たい鉄板の上に座らされていました。彼らの脇にはアメリカ人が立ち、背後には機内の天井から星条旗が垂れ下がっていました。

父親はその星条旗を指し「アメリカ国旗には私も誇りに感じたこともあった。アメリカ国旗は民主主義と自由の象徴であった。それが、こんな使われ方をするとは」と憤りにうち震え、そして息子の安否を気遣っていました。

E.W.サイードは「わたしたちの民主主義を返せ」という一文で、次のように語っています。

途方もなく犯罪的だと思われるのは、民主主義や自由といった重要な言葉がハイジャックされ、略奪行為や領土侵略や怨恨を晴らすための隠れ蓑に使われていることだ。 アラブ世界についての合衆国の計画はイスラエルのものと同じなってしまった。 シリアと並んで、イラクはかつてイスラエルにとって唯一の重大な軍事的脅威だった。だからこそ、壊滅させねばならなかったのだ。

サイードはアメリカの中東政策がイスラエルを擁護するシオニスト一派の戦略に支配されていることを前提にしていますし、それであっても、彼がアメリカに民主主義と自由の理想を重ねていたことが分ります。ここでアメリカの国旗や愛国心についてのサイードの見方にも触れておく必要があるかもしれません。「もうひとつのアメリカ」という「戦争とプロパガンダ4」にも納められている一文からの引用です。

国旗を振ることに、これほど重要な図象学的な役割を持たせている国は他に知らない。 タクシーにも、男物ジャケットのラベルにも、住宅の前窓や屋根の上にも、そこらじゅうに旗が翻っている。 それは国民イメージの具現化であり、英雄的な耐性と、価値なき敵との戦いに悩まされているという感覚を表している。

これは、アメリカという国に対する荒いスケッチの断片です。アメリカのアイデンティティの根源に国旗と、国旗が象徴する民主主義や自由という精神が込められていたとするならば(レバノン人の父親の言を思い出すまでもなく)現在のアメリカがその精神を冒涜し踏みにじったという主張は、単なる理想論的な悲憤という以上の意味を伴っているようにも思えます。

アメリカの民主主義が絶対であるという価値観に拘泥するものではありませんが、アメリカの世界における位置付けや意味付け、そしてウェイトが変化してしまったことを示唆しているのかもしれません。アメリカ政権内部でのシオニスト、ネオコンなどの保守派と中道派の局地的な主導権争いが繰り返されるなかで、アメリカ全体が大きく舵をとり始めているのではないかという認識ですが。

そういう認識からアメリカ対日本という関係を考える必要がやはりあるのであろうとは思うのです。

2004年5月31日月曜日

サヨクを論破する理論武装?


産経新聞社の月刊誌「正論 2004年6月」は《サヨクを論破するための理論武装入門》という、ワクワクするような記事でしたので、買って読んでみました。文責は石川水穂氏、産経新聞論説委員です。

15頁ほどの記事は全部で7章に分かれており、1.自衛隊イラク派遣と集団的自衛権 2.国旗・国家問題と朝日社説 3.首相の靖国公式参拝は合憲 4.朝鮮人強制連行という歪曲 5.間違いだらけの慰安婦問題 6.南京事件の重大なうそ 7.竹島・尖閣諸島はまぎれもない日本の領土 という内容です。

集団的自衛権に関しては、『どうしても必要』であると説きますが、その理由の第一が『日本国民にとって、イラクより深刻な北朝鮮の脅威が現実化』することに危惧を抱いていることにあるようです。北朝鮮の脅威が消えたらどうなるのでしょう、新たな脅威を作るのでしょうか。

国旗・国歌問題は、ここのブログでも数度触れましたが、東京都の通達に関しての教師処分とからめて朝日新聞を批判してるのですが、産経は授業で『国旗・国歌の意義や由来を含めてきちんと教えておけば[...]むりなく国旗に向かって起立し、国家を歌うことができるのです。[...]生徒の自主性とは何の関係もありません。』と書きます。それって、政治的プロパガンダとどう違うのでしょう。

『教員には当然、国旗・国歌の指導義務』があると書きますが、「良心的行為の自由」についてはどう考えるのでしょう。そんなもの公僕には存在しませんか。

靖国神社に関しては、『戦没者慰霊の中心施設として、遺族をはじめ日本国民の崇拝を集めて』いる、靖国参拝は『遺族や国民が待ち望んでいる』と書きます。「遺族」の部分は正しいでしょうが、「国民」と書くのはいかがなものでしょう。少なくとも国民である私は、崇拝も待ち望んでもいませんが。

同じような論法は『靖国代替施設構想は遺族や多くの国民から批判』『どんな形で死んだにせよ、死者を必要以上にムチ打たないのが日本の伝統的な国民感情』などというすり替えを行っていきます。死者にムチなど打ちたくありませんが、罪については裁かれ罪を贖ってこそではないですか、単なる恩赦ではないでしょうに。それとも戦犯たちにも「受命の抗弁」が成立するのですか。

続いて首相の靖国参拝を意見とした福岡の判決について、『裁判官個人の政治的信条の吐露』でしかなく『独善的』『裁判を利用した一種の政治運動』と舌鋒鋭く批判しています。これは、「SAPIO」(小学館)に掲載されている小林よしのり氏の「新ゴーマニズム宣言」でも同様のことが書かれており、小林氏に至っては、私的なサヨク的見解を述べたに過ぎない『暴論』であると怒りをあらわにしています。(SAPIO 5/26号)

しかし、現段階では、福岡地裁の判決の背景がどのようなものであるにせよ、靖国参拝がグレーゾーンであることに変わりはないというのが私の実感です。

朝鮮人強制連行や慰安婦、南京大虐殺に至っては、もはや根も葉もないでっち上げとする主張なのですが、例えば、

  • 「朝鮮人強制連行」は、朝鮮総連系の学者の造語
  • 徴用は法律に基づく戦時勤労員動員であり、それを「強制連行」とはいわない
  • 日本の群や警察が強制連行したことを裏付ける資料は一点もない
  • 「従軍慰安婦」という言葉は戦後の造語
  • 創氏改名の「強制」も間違い、差別もなかった
  • 南京大虐殺の「40万人」は学問的に検証された数字ではない、荒唐無稽な数字
  • 南京の人口は日本軍の攻略後もほとんど変わっておらず、10万単位の虐殺などありえない
  • 「南京大虐殺」は戦後、米国経由で東京裁判に持ち込まれた

などなど、いろいろと列挙してくださいます。自虐史観から抜け出し、自国の歴史を問い直そうという態度には、何度も述べますが敬意を払いますし、「学問的に検証」しようとする努力にも頭が下がる思いです。

しかし、私はサヨクではありませんが、残念ながら産経の主張には全く論破されませんでした。

ああそうなんだ、以前のエントリーにトラックバックしてくれた、k-tanakaさんの言葉を思い出した。

藤田の指摘から産経のつまらない主張に立ち戻って考えれば

そうだ、つまらないのだ産経の主張は、そんな暇があれば藤田省三の著作でも紐解き、天皇制とか国家について内省した方がましであると、ようやくにして気付いたよ。

2004年4月2日金曜日

国旗と国歌にまつわる話題3

大手新聞間で「社説」での意見交換が続いています。2日の朝日新聞社説によれば、朝日が3月8日と31日の2度に渡って国旗・国歌強制に対する反対を掲げたところ、産経新聞が4月1日の『産経抄』でそれを批判、また読売新聞も3月31日の社説で朝日を遠まわしに批判したというものです。(朝日の社説バックナンバーは読むことができません)




『産経抄』は数ヶ月前までは携帯で毎日読んでいたのですが、パッケット代を払ってまで読む内容でもないと思いその後チェックしていませんでした。読売の社説については私も31日のブログで紹介したばかりです。


産経や読売が右よりであることは今更論を待たないのですが、産経新聞は『都教委はあらかじめ[....]通達を出し、それに反した場合は懲戒処分の対象になることを伝えていた』ため処分された教師は『教師失格者であ』り、都教委の措置は『当然』と断じています。
いやはや。先ほど私が『産経抄』は読む内容ではないと書いたのは、あまりに産経の論調が一方的で同じ内容を毎日毎日繰り返しているだけのように思え辟易したためです(と書くと、産経読者から罵倒されそうですが)


朝日と産経の意見の隔たりは議論にさえなっていません。朝日や私が紹介した岩波の『世界』は、国旗・国歌強制そのものに対する異議であり、都教委の指導そのものが行き過ぎであるのではないかと疑問を呈しているのです。通達先にありきで、それを破ったので処分するのは当然ではお話しにも何もなりません。


朝日も2日の社説の反論では、


 さて、私たちの主張は何か。卒業式で日の丸を掲げるな、君が代を歌うな、などと言っているのではない。処分という脅しをかけて強制するのは行きすぎだと主張しているのだ。それがなぜ国旗・国歌を貶めることになるのだろうか。


と抗弁しています。


日本人は単一民族であると(一応は)されていますし、長く鎖国をしていた経緯や周りを海で囲まれていることなどから、民族意識、国歌意識が大陸諸国よりは薄いのかも知れません。あるいは、同じ島国であっても台湾や東南アジア諸国のように、植民地化の歴史がありませんから民族自立の意識も希薄なのかもしれません。アメリカのように巨大大陸でありながら建国の歴史が浅いことから、強力な国家意識が必要な国もあります。


私は朝日新聞を全面的に信用しているわけでは全くありません。そもそも、国旗や国歌がなぜ必要なのか考えてみる必要があるのではないでしょうか。日本は明治維新そして終戦と二度にわたって国民意識を根底から変革する事態に遭遇しました。過去の歴史と不連続であるわけです。「愛すべき日本」「護るべき日本」とはどのような「日本」なのか、考える必要があるのではないでしょうか。その先にこそ議論はあるわけで、表層的で不毛な国旗・国歌論争には飽き飽きです。


ただひとつ私の態度を明確にしておきますと、天皇の時代が永続的に続くことを歌った「君が代」を、私は国歌であると承服することは全くできません。それが歌詞抜きになったとしてもです。もしこれが日本の精神性を代表する唄であるとするなら、森元首相の暴言ではありませんが、日本はやはり美しい「神の国」という思想まで一直線でしょうに。

2004年4月1日木曜日

国旗と国歌にまつわる話題2


音楽のブログなのではありますが、やはり書いておかずにはいられません。31日付けの朝日新聞社説は『国旗国歌――起立せずで処分とは』として東京都教育委員会の国旗・国歌に関する通達に関し職務命令違反があったとして180人もの職員を処分した件に触れていました。


一方、読売新聞では『[国旗・国歌]甲子園では普通のことなのに』として、国旗・国歌に対する学校の混乱を『学校だけが社会の意識とかけ離れている』と断じています。




まず、朝日の論調を読んでみましょう。紙面は都教委の通達から今回の処分に至る一連流れを『いきすぎを通り越して、なんとも悲しい』という言葉でまとめています。『日の丸や君が代に抵抗感を持つ人』や『むりやり起立させられたり、歌わされたりするのはいただけないという人』もいるのだから『一人残らず国旗に向かって起立させ、国歌を歌わせようというのはむりがある』と書いています。


読売新聞は、都教委の通達を『式に国旗、国歌を正しく位置づけるため』のものであると是認し、『日本の国旗、国歌はもちろん、外国の国旗、国歌をも尊重することが国際的礼儀につながることを子供たちに理解させることは、学校教育の大きな目的』としています。サッカーのW杯などでの若者が国旗を振る姿にも触れ『国旗や国歌に対する自然な態度が育っている』とし、先の学校だけが異常との論理で締めくくっています。


教育現場で何が起きているのか、昨日紹介した『世界 4月号』の『「報国」の暴風が吹き荒れる』(斉藤貴男)から引用しておきましょう。


  • 教職員や来賓の席順表や式次第を、あらかじめ都教委に宛てて提出した学校がある。

  • (式)当日はどの学校にも指導主事ら都教委職員四~八人ほどが来賓として派遣され

  • 君が代斉唱に臨む教職員の態度を監視

  • 教頭が教職員席周辺を歩いて「指針」通りに振舞われているか否かを確認

  • その様子を都教委が壇上の来賓席から見張る

  • 反抗的とされた教職員は例外なく、式の終了後、校長室で指導主事らに取り囲まれ事情聴取を受け

  • 報告を受けて都教委人事部は改めて彼らを呼び出す

  • 都教委同席の予行演習で「国歌斉唱の声が小さい!」と生徒を怒鳴りつけた校長がいた

  • 君が代の伴奏をしたくないという音楽教師に「出て行け」と命じた

  • 式典の後の講演会で、日の丸と並べて星条旗が掲揚され、アメリカ合衆国国歌の演奏とともに生徒が起立を促された(大田区内のA高校)


これが、ほとんどの学校現場で起きているならば、明らかに異常だとは思わないでしょうか。

W杯アジア一次予選に沸くTVを付けながら・・・

2004年3月31日水曜日

国旗と国歌にまつわる話題

『東京都教育委員会の2003年10月23日通達』(10.23通達)というものをご存知でしょうか。都教委が発した卒業式・入学式などの学校行事を行う際に国旗・国家の扱いを事細かに定めたもので、教師には「服務上の責任」が求められています。私もネットでこの通達本文を読みましたが(今は探せなかった・・・)、あまりの細かな規定に違和感と不信感を持ったものです。

(以下、長いですよ)

ちょっと前の話題ですが、3月26日の産経新聞の社説は「国旗・国歌 都の徹底指導を見習おう」というもので、教育界で騒然となった10.23通達を見習えと主張してます。更に、

ふだんの授業で国旗・国歌の意義や由来を含めてきちんと教えておけば、むりなく国旗に向かって起立し、国歌を歌うことができる。国歌斉唱時に起立して歌わないことは、生徒の自主性と何の関係もない。

という主張を展開しています。


岩波書店の『世界 4月号』では『「日の丸・君が代」戒厳令』という特集が組まれており、『脅かされる思想・良心の自由』というテーマで憲法学者やジャーナリスト、弁護士などの論説を掲載しています。

『世界』で主張しているのは将に、国旗・国家の強制が、教育の目的である「人格の完成」と子供の教育を受ける権利、そして憲法で保障されている思想、信条、良心の自由を侵害するものであることに対する反論です。両者の持つスタンスの間には、掛け渡す橋さえないような深い溝がうがたれているのを感じます。

さて、「壇上の日の丸に向かって直立し、君が代を斉唱して下さい」と言われたなら、私だったらどうするでしょう。「歌うも自由、退席するも自由です」ともし告げられていたとしても、せいぜいが斜に構えて口パクをする抵抗が関の山といったところでしょうか。「ムキになって反対するほどの思想的根拠も持っていないけれど、朝日的な気分からは反対しておこう。」という心情です、何とも情けないですね。「イデオロギー」なんてもはや「死語」ですし。

しかし、「君が代を声を出して斉唱しないものは、服務不履行として厳重注意する、あるいは国民としての義務違反だ。」みたいなことまで言われるとしたならば、少しは穏やかではなくなりますね。そこまで国家が内面的精神活動である「思想や良心の自由」に踏み込んでいいのかと思うわけです。でも、やっぱり国歌だけの問題ならその場を適当にしのいで誤魔化してしまうというのが、処世術というやつでしょうか。

産経新聞は、そういう態度にならないようにするために「きちんと教えておけば」問題ないと主張します。教育がいけないから、君が代や日の丸を疎んじたり愛せない子供ができるのだと言っているわけです。これは小泉首相をはじめとして、教育基本法の改正まで目論む方々の共通認識です。

『世界4』の論説では、ジャーナリストの斉藤貴男氏は『国家にとって教育とは一つの統治行為』であり『必要最小限の共通認識を目指す義務教育については、国家はこれを本来の統治行為として自覚し、厳正かつ協力に行わなければならない』という「21世紀の日本の構想懇談会」の最終報告書を引用した後に、

『"統治機能としての教育"を前面に掲げることのできる人間観が導く社会の実相。あるいは伝統や歴史を纏った<国旗><国家>をシンボルに統合された国民は、どのような世界に連れて行かれようとしているのか。』(P.88)

と危惧をあらわにしています。教育という点については憲法学者の西原博史氏も『教師における「職務の公共性」とは何か』という論説の冒頭で

政治的な権力を持つ者が、自分たちが目指す政治目的を実現するための道具として教育を利用する動きがある。[...] 政治的に色の付かない「真実」を主権者国民が共有するには、政治権力が教育内容をねじ曲げることは明らかに好ましくない

私の国旗・国歌に対するスタンスは先ほど述べたように、きわめていい加減であるので、お二人の意見には同調はするものの、教育とは為政者にとって常に都合の良いようにできているものなのではないだろうか、という疑問にもぶち当たるのです。国家としてまとめてゆくためには、教えるべき情報と、隠蔽すべき情報があり、『政治的に色の付かない』教育などというものが、果たしてこの世に存在しえるのかと思うわけです。

ただそう思うようになったのは、社会人になってかなり経ってからでしょうか。教育というのは一面的であること、世界は自分の知るところだけではないことを知るのは、二次元に住む人がZ軸のあることを気付くよりは容易なはずではあったのですがね。

話がまとまりませんが、政府が国旗や国家を持ち出さなくては「愛国心」の養成ができないということ、そのことこそが危機的な状況で、偶像的なものにさえすがらなくては、もはや日本としてのアイデンティティと求心力が失われてしまっていると考えているのならば、為政者と旧世代の焦りのようなものを通達からは感じることができ、やっぱり日本は大丈夫だろうかという心配が逆に沸いてくるのです。

以前も君が代問題は、こことここに書きましたが、彼らが守りたい世界と、私が望む世界にはあまりにも隔たりがあるような気がしてなりません。ここでも書きましたが、そうまでして維持しようとる世界はどんな世界なんですかね。

2004年3月4日木曜日

札幌市長の君が代斉唱中止

本日の読売新聞によりますと、札幌市の上田市長が新年互礼会での君が代斉唱中止の件で、ごたごたしているようです。上田市長といえば、昨年の市長選挙民主党はじめ市民ネットが推薦した元弁護士で、史上最多の7人の候補者が乱立する中、勝ち上がった方です。

記事によりますと、上田市長が君が代斉唱を中止した理由は「多様な価値観を認めることが民主主義」であるとの持論によるものだそうです。自民は「公人ではなく個人的思想に基づく行為」と反発を強めて予算特別委員会で追求をしているという図式のようです。新聞記事は更に、

(上田市長は)戦前、国旗・国歌が国家への忠誠心を表す対象とされたことに触れ、「私が恐れるのは公権力が一つの価値観を強要する社会」と指摘。「精神的自由の尊重が重要で、そのためには(新年互礼会の)君が代斉唱は必要ない」と従来の見解を繰り返した

2日の朝日新聞北海道版では、

日本が第2次大戦を回避できず、自国他国を問わず、悲惨な結果を招いた最大の原因は国民に精神的自由が保障されていなかったからだ

精神的自由に影響を与える可能性のある事柄には、国家は中立的で、できる限り抑制的であるべきだ

という上田市長の言葉を引用しています。

問題は国旗、国歌ということより、個人の信念と公人と私人としての役割、そして「精神的自由」ということに集約されそうです。たとえば小泉首相の靖国神社参拝も、個人の信念としてならば非難されるべきものではないかもしれません。

互いにひっかかるのは、政治家としての歴史認識を言動として表さずに、表層的な結果だけで動いているために余波を呼ぶのかなと思うのですが。君が代を斉唱することが法的に定められた国家意思であるという考え方は、いわゆる人を殺してはいけないというようなものとは違って、やはり違和感を感じずにはいられません。

ちょっと違いますが、住民基本台帳に反対する自治体がありますよね。東京都ですと杉並区とか国分寺市ですが、行政が行政のやり方に反対することはけしからんことで、違法なことなのですか。もっと言えば、会社において「社長の意見や会社の規律に馴染めないのなら、辞職しなさい」というのは一見正しいようで、組織的にまっとうな組織といえるのでしょうか。いろいろ考えてしまいますね。

ちょっと脱線しすぎましたか。

(参考)

2004年3月3日水曜日

国歌、国旗についての読売新聞


本日の読売新聞社説は『[国旗・国歌]「卒業式も国際的標準を視野に」』とした上で、国旗国歌の重要性を説いていました。私を含めて、国旗、国歌に複雑な思いを抱く人は多いと思います。



読売新聞いわく


 先進諸国は共通して、学校での国旗、国歌教育を重視している。アメリカでは法律で、学校などの公的機関に国旗を掲揚することが定められている。自分たちの歴史や文化、アイデンティティー(自己同一性)を確認し、国の将来を構築していく意志を示すためだ。

 国旗、国歌を通じ子供に精神的な支柱を形成する取り組みが、グローバル化が進む今、以前にも増して重要だ。

国旗、国歌に限らず、国家とは何かという認識が重要であること、(国家なくして個人は国際社会で存在できませんから)国家によるアイデンティティの確立も重要であることは認めます。


学校においては、国旗掲揚及び国歌斉唱の実施は義務付けられていますから「国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われる」らしいです。


再度読売新聞に戻りますが、


 日本では、戦前の軍国主義体制への嫌悪感などから、国家について突き詰めて考えることを避け、国旗、国歌への態度も曖昧(あいまい)にする傾向が続いてきた。


とあります。嫌悪感とともに出されるのが贖罪意識あるいは自虐史観に基づいた歴史認識です。やはりそういう歴史を総括して清算しない限り、国歌、国旗問題、ひいては憲法9条問題も解決しないのではないでしょうか。外圧や対外的な脅威のみに依存した、安易な解決や改革しなくてはならないような雰囲気つくりに流されること、こういうことはやはり避けるべきだと思いますが、いかがでしょう。

若い歌手が「アカペラで国歌を歌いたい」と言う発言には、どう受け止めるべきでしょう。以前、忌野清四郎が国歌を歌いましたが、変にカッコよかっただけに不気味でした。


サッカーW杯などで無邪気に国旗を振る海外選手を見ると、うらやましいと思いますが、日本は何故国旗を振ることに罪悪感と抵抗感があるのでしょう。サッカーのオリンピック予選が始まりましたが、どうしてあんなに「国を挙げて」熱狂する雰囲気をマスコミは作り、それにまた皆乗ってしまうのでしょう。


アメリカは占領地に星条旗を立てて歴史を作ってきましたが、彼らには贖罪意識はありませんね。やっぱり連合国だからでしょうか・・・


右傾化や改憲派が与野党で趨勢を占めてきましたが、彼らや彼女らは徴兵制を前提(1)に議論しているのですか? 彼や彼女らは、自分たちの子供や孫を戦地へ送る覚悟ができているのですか?  戦地での彼らや彼女らに、相手が敵なら銃剣で刺し殺せと教えるのですか? 日本人が海外で銃弾に当たって死ぬことや、地雷や爆弾に当たって吹き飛ばされることを許容できているのですか?


国旗、国歌問題から飛躍しすぎかもしれませんが、こういう問題を考えると己の勉強不足と認識不足に、はっきり言ってうんざりしてしまいます。


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(1) 安直に徴兵制度と書きましたが、調べてみると現在の主流は志願兵制度ですね。現在の防衛強化の方向を、「徴兵への移行」などと考えるのは短絡すぎるようです。ドイツは徴兵制を残していますが、イギリス、フランス、スペインでは徴兵制は廃止されています。イタリアも2005年には完全志願制に移行する予定です。勿論アメリカも志願兵性ですね。日本が軍隊を持つとしても、志願制で人が集まらない状況にならない限り、徴兵制は採用されないという議論もあります。また、現代の近代化した兵器を扱うのに、期間兵では役に立たないとか、徴兵されたものを教育する体制にないなどの現実的な問題もあるようです。おっと、このエントリーは「国旗、国歌問題」でしたね。この手の問題は、まだまだ勉強不足のようです。