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2004年6月8日火曜日

【本棚】辺見庸:独航記


作家でありジャーナリストである辺見氏の四半世紀にわたって書かれた様々な著述の中から、氏が自ら選定したノンジャンルの発言・文芸・評論集です。辺見氏といえば、硬派のジャーナリストというイメージでしたが、本書からは氏の多様性と彼が何に拘っているのか、その水脈を知るようで(氏の言葉を借りれば「地下茎部分」となるのですが)非常に興味深く読むことができました。

硬派の文章からは想像だにできませんでしたが、本書に書かれていることに脚色がないとすれば、氏は女性関係で苦労もし、カラオケも歌えば、乱痴気騒ぎの後の二日酔いで東海道線のトイレでゲロ吐いたりするなど、相当に「だらしなく」「身勝手」です。

一方で「遊糸」とか「雪迎え」とかのような風物に心を動かすほどに「情緒的」で「風流」で、はたまた、烏に狙われそうな浮浪者を助けるでない自分の「偽善」と「ずるさ」を自覚したりします。

ソマリアの戦場取材中では、頭上をかすめる小銃攻撃に這いつくばりながら『眼を開けたときには[...]私の伏せている場所がどこか他国にあり、一面の向日葵畑にでもなっているといい』と考えるほどに、「普通の」男でもあることに、意味のない安堵を覚えたりします。

かように、等身大の辺見氏に触れる思いがするのですが、では辺見氏に対し私が抱く、ある種の「引け目」とか「負い目」のようなものが緩和されるかといえば、さにあらず。またしても、この男には適わないなという(勝負する気など毛頭ありませんが)思いが増幅されることにあいなった次第。氏自身はブレがあると恥じ入っていますが、氏の動かぬ「地下茎」はおそろしく「頑固」であり「堅固」であることには変わりないようです。

私が氏の著述を読んで感ずる「負い目」が何なのかは判然とはしないのですが、例えてみるならば、学生時代にどんなに高邁な著者の思想を聞きかじって振りかざしたところで、その欺瞞と思想的な偽善を一瞬のうちで論破されてしまうような友人などに対する負い目とでもいうのでしょうか。実体験や身体性を有さない発言の脆弱さとでもいうのでしょうか。

本書は雑多なテーマがごった煮のように詰め込まれていますが、それぞれの文章は極めて鮮度が高くそして印象的です。

本書の最後に「われわれはどんな曲がり角を曲がろうとしているのか」とする『世界』1999年6月号のインタビュー記事が掲載されています。その中で、辺見氏がよく使う「鵺のような全体主義」という言葉が出てきますが、氏の主張の中で重要なテーマの一つなので引用しておきましょう。

鵺のような全体主義のやっかいさは、「主体」がないことだと思うのです。菌糸のように絡まりあう全体主義でもあり、明確な責任をもった主体が皆無に等しく、全員が自覚なき共犯者で、無責任に絡まりあい、発行しあう。

氏は『鵺のような全体主義が議論を殺している』と批判し、矛先をマスコミにも向けており、以下のように続ける点は2004年の今をも照射しています。

皆がなぜか肯綮に中るのを恐れ、大事なテーマを深めるのでなく、テーマを拡散し、攪拌してしまっています。情緒を前面に押しだして冷静な論理を圧殺してしまう。問題の芯には触れず、枝葉ばかり論じる。マスコミはそうし向けていく酵母菌のようです。「個」を発酵させて、全体の中に溶かしてしまう。そのうちに、マスコミは肯綮がどこにあるのか、芯や急所が奈辺にあるのかさえ分からなくなる。これらもまた、鵺のような全体主義の特徴です。

最近のイラクへの自衛隊派遣問題、イラク人質事件、北朝鮮問題、年金問題などを振り返るまでもなく、氏の指摘が鋭く正鵠を射ていることに驚かされます。

2004年2月29日日曜日

【本棚】辺見庸:単独発言


辺見氏の本は重い、しかしあまりにもめちゃくちゃな世の中だからこそ、氏のようなジャーナリストにして作家が居ることを、僥倖であると思わないわけにはいきません。麻原氏の死刑判決に対する一文を書いたのも、彼の本を読んでいたことと無関係ではありません。

辺見氏の本は現代の精神的なカンフル剤、あるいは踏み絵かもしれないと思うことがあります。日々の情報と生活にまみれ思考停止状態になっている中で彼の文章に接すると、紙面の奥から読むものの嘘と真実を見抜くような視線さえ感じます。

本書は「私はブッシュの敵である」と副題にあるように、911テロの後のアメリカの有様や、彼が1999年問題と指摘するように、日本の21世紀に向けての祖型がつくられた頃の日本の精神的風景を書いています。彼の前ではエセ改憲論者や俄か軍事評論家はひとたまりもなく吹き飛んでしまのではないでしょうか。彼の持つ言葉の重みの前では、自らの怠惰を恥ずるのみです。

歴史が、突如、激しい痙攣を起こした。それを前にしては、いかなる作家や哲学者の、どのような表現も、凡庸のそしりをまぬがれないほど、光景は、突出し、ねじれ、熱し、歪み、滾り、かつ黙示的でもあった。(「私はブッシュの敵である-言説の完膚なきまでの敗北について-」P.1)

彼は一貫して現代の体制に従事してしまったマスコミを批判し、言説が力を持たなくなったことを嘆いてはいますが、彼は真のジャーナリストであり作家ですから、言葉の強さ、行動を伴った言葉の力を信じています。これほど端的に911テロを言い尽くした言葉があるでしょうか。

本書の中で辺見氏は映画「コヤニスカッティ」に触れています。F・コッポラ製作、ゴッドフリー・レジオ監督、フィリップ・ダグラスの音楽による、文明の廃頽のようなものを、一切のナレーションもなく延々と映像と音楽だけで延々と2時間近く流し続けるという、驚くべき作品です。私がこの映画を映画館で観たのは高校生の終わりの頃だったでしょうか。ものすごい衝撃を受け、今でも鮮明に映像が脳裏に焼きついています。あれは一体なんだったのでしょう、おそらくは高度に肥大化した資本主義の断末魔の叫びを観せられていたのかもしれません。辺見氏の哲学の向こうには、米国帝国主義と米国性資本主義を超えた世界観が見据えている点で、同時代の発言とは一線を画しています。

辺見氏は今の時代は、明らかに間違った方向に進んでいる、特に小泉政権のもと、彼を支持する国民とそれをもてはやすマスコミたちとともに、改憲気運が高まっていることに警鐘を鳴らしています。それを「実時間における作家の時代認識について」として、野間宏氏の例を取りながら、自らを内省してみせます。私たちに今見えていないことは何なのか、今何を言うべきなのかと。

彼の本は、一言では言い表せず、彼の投げかけたテーマと罠は、ふとした局面で自らを試すリトマス試験紙あるいは踏み絵のように、また舞い戻ってくるのだと思わずにはいられません。彼の本を読んで、自らのものさしの目盛りが正しいのか、時々確認せざるを得ません。

2002年12月28日土曜日

【本棚】辺見庸:永遠の不服従のために

サンデー毎日に連載された「反時代のパンセ」をまとめた単行本が出版された。

辺見庸氏の文章を読むことが、この時代幸福であるか、あるいは不幸であるかを考えることは難しい。なぜなら、彼の突きつけるテーマは、あたかも闇に鈍く光るナイフのように、ギラリとした鈍い光を放って読むものの脇腹に押し付けられるからだ。私はその瞬間に動くべきか止まるべきか、冷や汗をかきながら呆然としてしまう。ナイフの切っ先ににじむ赤い血は、果たして自分の血なのだろうかと危ぶみさえしながら。

『「転向」についての丸山眞男のメモを読んだとき、ふと生首、いやアジサイを思った。(中略) でもガクアジサイたちも、それを見るわれわれも、変色に心づくのは、ごく稀である。やっかいなのは、そのこと。無意識の、はっきりした痛覚もない変身であり変心なのだ。』(「裏切りの季節」より)

彼は、私のように、時流に流されるかのように意見を変えてゆく者の脆弱さに対し、怒りも軽蔑もしてはいなかもしれない。私は逆に彼の本を読み彼の声を聞いたにも関わらず、それ故にというか、彼から無視されてしまうかのような錯覚に陥り、ひどく狼狽してしまうのだ。

彼の論点を要約することにも意味はない。彼のマスコミ批判や平和への考え方、今の日本や米英のありようなど、列挙してゆくと、声高々に主張しているように思えてしまうかもしれないが、そうではない。彼が有事関連法案に対してどのような反対のスタンスをとっているのか説明したところで、「お前さん、違うんだよ」と言われてしまいそうだ。なんだか彼の前に立つと、薄っぺらな本質的とはいえないような問題を、延々と阿呆のように弄しているような気にさせられてしまう。

『樽や井戸のなかで暮らす者たちには、よほどの想像力の持ち主か慧眼でないかぎり、樽や井戸の外形や容量を見さだめるのが難しい。まして、樽や井戸の外部の他者たちがそれらをどのように見ているかについては、まず考えがおよばない。』(「国家の貌」より)


彼が何に対して「服従しない」と言っているのかは明白だ。しかし、彼のような精神を有して生きてゆくことも、極めて大きなエネルギーと勇気の要する行為であると思う。社会とうまくやってゆくためには、彼のような考え方に染まることは、ある意味において「危険」である。しかし、一方で私にとっては、抗うことのできない危うさと確かさでもある。

『まさにそうなのである。時とともに悪は恐るべき進化をとげつつある。経緯はこうだ。』(「戦争」より)

ひょっとすると私は、単なる精神的なカウンターバランスとして辺見氏の主張を受け入れようとしているのかもしれない。自らの考え方の柔軟性や精神の健全性を示すバロメータとしているのかもしれない。だとすると、この上なく狡猾な接し方とは言えないか。社会における辺見氏のとらえられ方も、案外そういうところにあるのかもしれないと思うと、自分のことを差し置いて憂鬱になる。この本が売れれば売れるほど、不幸なことなのかもしれないと思うのだった。

『例えば、月はもはや月ではないのかもしれない。ずっとそう訝ってきた。でも、みんながあれを平然と月だというものだから、月を月ではないと怪しむ自分をも同じくらい訝ってきた』(「仮構」より)

そういうことさえ、辺見氏は了解していているかのようなのだ。心底、おそろしく、かなしく、そして美しくも強い本であると思う。