ラベル 幸福論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 幸福論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年1月8日木曜日

自己完結型の満足は世の中の役に立つのか

年末に書いた、写真家の相原正明さんの言葉が気になっています。

定年後、写真を始める男性の陥りがちな、人との付き合いが苦手だから「風景写真」や「スナップ写真」を撮ることにして、それをどうやったら人に届くようにできるか、的な問いかけに対するものです。

最近流行っているのかどうか、「ひとりキャンプ」とか、単独行での登山とか。「ひとりめし」など、個人でのレジャーや趣味が日本では一般的になりました。

気の合わない人と共にするくらいなら、自分で好きなものを好きなだけ、という、自己満足系の生き方です。

このような生き方に「意味」があるのかと考えていたからです。

これは禅問答にある「深い森の中で一本の木が倒れた時に、音は存在するのか」という問いかけでもあります。



2020年2月26日水曜日

不安定な情勢の中で思うこと、陰謀論の広がりとか、どう生きていくか

 2020年になってから、急速に世界が不安定になってきました。

昨年末からのコロナウィルスの世界的な蔓延、アフリカで発生したイナゴの害。これら旧約聖書の黙示録的な厄災を陰謀論としてとらえる向きもあります。

陰謀論かどうかは別として、時代が変化しつつあることは確かなようです。特に、金融を中心とした現在の資本主義に限界が見えてきたことは、あちこちで指摘されています。加えてアジア、アフリカ諸国の台頭による食料環境問題もこれから深刻になるでしょう。

NWO(New World Order)とかイルミナティ(これが何を指すのか、今もってよく分かりませんけど)の思想のように人口を抑制すると考える勢力があってもおかしくはない。実際に、日本の政治や社会も安倍政権において完全にモラルハザード状態となりました。アメリカはQAnonが広がりを見せています。

「覚醒」したと考える者たちは、現在の政治や社会が、現体制を維持するのに不都合な「事実」を隠蔽していると考えます。本来はもっと良い世界に向かえたはずなのに、世界を支配する少数の者たちによって支配されていると。宗教でさえ、そのために利用されたものではないのかと。

「覚醒」したものと、そうではないものと、世界は「分断」を目指しているようにさえ見えます。これはもはやかつての「文明の衝突」のような宗教文化社会的な分断ではない。どのような現代社会も貨幣資本主義の原理で動いている中で、従来型のシステムとそうではないシステムにおける分断と言えるかもしれません。

貨幣経済もマネーの電子化によって急速に変容しつつある。その動きとリンクする形で「お金に捕らわれない生き方、社会の在り方」が提案されてもいます。

このような不安定の中で、従来型の経済も宗教も社会も崩壊しそうなことも影響してか、暴露、陰謀系の議論やスピリチュアル系がもてはやされているようにも思えます。現在の「在り方」に対する徹底的な批判と脱却のためということでしょうか。

現代の「分断」が加速される世界においては(富においても知においても)、多くの者が「幸福」になれそうにないことが、うすうすと分かってきています。あるいは、仮の「幸福」に囲まれていたとしても、それが誰かの犠牲の上にあったり紛い物であったり、いわゆる邪悪なものから生じたものを享受しているだけと思えるならば、それは「幸福」な「在り方」とは言えません。簡単にいえば、ビーガンの流行も、そのような文脈でしょう。

スピリチュアルとか陰謀論を受け入れる、受け入れないに関わらず、世界の志向が同じ方向を向いているように見えます。

今後どう生きていくかと、書き初めは考えていたのですが、全然違う話になってしまいました。


2019年1月6日日曜日

【本棚】重松清の「定年ゴジラ」を読んで〜定年本に加える

自分も会社人生での定年が近くなってきているので、定年関連の本をボチボチ読んでいます。この本も何気なくAmazonで見つけたので読んでみました。

こちらはニュータウンを舞台に、戦後の高度成長期の日本を駆け抜けた、団塊の世代の少し前の世代の物語。「終わった人」(内館牧子)「孤舟」(渡辺淳一)」もそうですが、大企業で勤めたサラリーマンが主人公です。しかし、この2冊と比べてみると、あまりにもその世界観の違いに愕然とすします(定年本2冊を読んで)。

60歳定年が当たり前で、寿命もおそらく80歳くらいなもの。長寿問題はまだ先の時代で、親の介護など現代的な問題はまだ考えられていなかった、ある意味で平和な時代の物語。日本もこの時代は、今ほどはおかしくっていなくて、定年後の有り余る時間を、家族や近隣とともに、それなりに生きることができた、もしかしたら最後の世代なのでしょう。

重松さんの語り口は、定年を迎えて行き場のない男たち(重松さんの父親世代になるそうだ)に対して、限りなく暖かい目線で物語をつくっている。ニュータウンが中心だから、親しい人との別れや、新たな出会いなどはあっても、大きな事件は起きない。日々の喜怒哀楽が淡々と描かれてい、それがしみじみと心にしみる。

主人公たちは有り余る時間を持て余しつつも、「終わった人」のような焦燥感ややり残し感に苛まれることも、妻との関係が悪化して色恋に走るようなこともしない。あるがままに、今の人生と、歩んできた人生と、今の生活を愛おしみ、そして次の世界に向かう準備をしている。あまりにも普通の生活。

こういう物語ですから、読む人の年齢や性別、キャリアによって感想は全く異なるものになるでしょう。小説の主人公のようなサラリーマン生活を送った自分でさえ、重松さんの物語を否定したくはないものの、今の時代にあっては、過去の大人のためのファンタジーとしか読めません。

この小説は「小説現代」に連載され、1998年に単行本化されたものですから、たかだか20年前、しかし20年も前の時代なんですね。あまりにも時代が変わりすぎました。小説の中にインターネットやパソコンが少しだけ登場しますが、まだ電話回線のモデム時代です。これでは昔話となっても仕方がないか知れません。

それであっても読む価値はありましたか、なぜ現代は、あの時代のような幸福を求めることができなくなったのかを、改めて問う意味でも。

2018年10月9日火曜日

【本棚】定年本2冊

定年を扱った小説をふたつ読んでみた。
書かれた時代は約5~7年の隔たり。どちらも団塊の世代周辺の物語である。
ふたつを通して読むことで、共通点と相違点も見えてきた。

【本棚】「孤舟」 渡辺淳一

渡辺淳一2010年の作品。発売当時、かなり話題になった本だったと記憶している。その頃の自分は、近くはないがまだ先のことと気にはなるがスルーした。今になり、還暦もそう遠い未来ではなくなってきたので読んでみた。

定年退職した夫が毎日家にいることになる。夫はやることがなく時間を持て余す。それでも、働いていた時と変わらずに、妻に日常の些事を要求する。水をよこせだの飯はまだかだの、そういうことだ。そういう夫に対し、夫が毎日家にいることに耐えられなくなる。いわゆる妻は主人在宅ストレス症候群か。夫が描いていた定年後の悠々自適の生活とは裏腹に、夫婦の関係が急速に悪化していく・・・。


2018年10月4日木曜日

【本棚】小説「終わった人」 内館牧子

定年とか今の仕事人生の終わりが見えてきた自分に、何が見えるかと思い読んでみた。

主人公は東大法学部卒、大手銀行に勤め役員一歩手前で子会社の役員に飛ばされる。銀行の熾烈な出世競争に負けたわけだ。それでも年収1200万円が保障され、夫婦で老後資産の心配はない。人生勝組の数パーセントに所属する主人公を一言で表せば、自分中心主義の勝手で鼻持ちならない見栄とエリート意識の塊の男、である。
小説は、そんな彼が定年を迎えた日から始まる。定年になって、やっと仕事後の人生設計を考えるという、そもそも最初から「終わった感」がある。

そういう人物が、いかにこの世代に多いかを、作者の内館氏は見てきたのだろうか。読者に不快感を与えるほどあり得ない設定の主人公であっても、幸せな老後は簡単には訪れないことを描き、それを通じて、仕事というもの本質を内館氏は抉り出していると感じた。


2001年9月8日土曜日

景気回復の暁に・・・

長くなったので項を改めるが、構造改革なって景気回復したとき、皆さんどういう生活をしたいのだろうか?
 
会社に勤める人なら、夜のクラブでドンペリ飲んで、ゴルフ場に通いまくりたいのだろうか(私は経験ない)? あるいは、経費で韓国や東南アジアに行ってカジノに行きたいのだろうか(これもない)?  女性なら、ブランドバックやコートを身にまとい、海外旅行や香港買い物ツアーに毎年のように行きたいのだろうか?
 
そういう生活が、豊かな生活なのか?・・・・確かに豊かだとは思う。
 
でも、私はそんな生活をしたくはない。
 
情報や流行に追われず、家族や友人と、自由に豊かに、安心して過ごせる環境と時間をください、と言いたい。
 
隠居するということじゃない。イベント的な派手な楽しみではなく、日々の生活での楽しみみたいなものが少なすぎると思うのだ。
 
いまの日本の社会で、子供の成長を十分な余裕をもって、ともに喜んで見守ってあげられる大人はどのくらいいるだろうか。

2001年9月7日金曜日

外務省の詐欺容疑事件に思う・・・日本の体質

外務省のホテル代水増し請求事件(外務省の元課長補佐が詐欺容疑で逮捕された事件)に、皆さんはどのような思いで接しておられるだろう。地位を利用して詐欺まがいの着服をして本当にけしからん、というの感想が多いと思う。金額といい、外務省の体質といい、われわれの感覚とはかけ離れたものを感じて、憤りを感じるのだと思う。
 
しかし、思うのですよ。官僚に限らず企業においても、公私の別がつきにくい体質というのは、日本全国に蔓延しているのではないかと。
 
例えば、会社では接待費というのは経費でおとせることになっている。しかし、接待しているのか自分で自分を接待しているのか分からないような状態は現実にはあると思うし、部課内の同僚と飲み食いしたものまでも、接待したとの名目で領収書を差し出すこともないわけではなかろう。コンプライアンスや経費節減がうたわれるご時世、何の理由もなく社員が飲み食いしたものに金を払うところはなくなってきているが。
 
うちの会社のハナシをして恐縮だが、接待には事前承認が必要で、一人いくらまでという上限がある。また去年まで存在した、部署長なら持てたタクシー券も遂に廃止になった。しかし実態としては、そのような社内規定が有名無実化している部署もある。(だから、古い体質の会社なんだよな)
 
このような意識が生まれる背景には、サービス残業のあり方や、会社への拘束度というものが大きく影響しているように思える。自分だって「タダ働きしている」のだから「少しくらい経費を使ってもいい」という感覚だ。言い換えれば、企業は経費の横領を半ば黙認しつつ、個人を安いサラリーで雇っているわけで、労使暗黙のいわば飴とムチのようなやり方といえない事もない。
 
これは、日本の企業精神風土として公私の別がないことを表す一つの例といえまいか。欧米式にビジネスライフと個人の生活を厳然と分けるような生き方とは、根本的に異なる気がする。欧米にも残業しまくるトップビジネスマンはいる。しかし、彼らは企業に縛られているのではなく、自分の地位向上の為に企業を利用しているようなイメージだ。
 
日本のビジネスマンは、会社に住宅ローンまで借りてしまい、褌(ふんどし)のヒモをつかまれたまま公私の別なく働かされているという気がする。夜は夜で、接待という名の際限のない飲食、土日も客や関係会社との親睦という名のゴルフという例もあろう(さすがにバブルはじけて、客足は遠のいていると思うが)。
 
いったい個人の自由な時間、家族のための時間がどこにあるというのだろうか。
私は、このように考えた場合、元課長補佐の罪は消えないまでも、日本社会の代表として逮捕されたという気がして仕方がないのだ。そして、こと外務省だけの問題ではないため、問題の根は一向に改善されないと暗澹たる気分になるのであった。
 
構造回復や景気回復のことで、何度も書いているが、結局行き着く日本人の「幸福論」。これは、案外、個人の個としての自立と家族重視の考え方ということから始めないといけないのかもしれない。日本の病理の全ては、ここらあたりに根があるのではなかろうか。
個人の自立意識により企業体質が変るのか、その逆かは分からないが。おそらく外資系企業やIT系企業は(知らないけど)かなりドライだと思う。
 
まあしかし、大上段に書いているけど、私だって経費で飲み食いしちゃうし、同じ穴のムジナなんですよ。哀しいですね。

2001年8月28日火曜日

構造改革なくして景気回復なし

この話しを考え出すと、どうしても「幸福論」に行き着くのだ。
 
景気回復することが幸福だとする、大多数と政府、企業というもの。しかし、そこで働く多くの人たちは、本当に幸福なの?という問いである。
 
男性であれば家庭を犠牲にし、自分の信念も場合によっては犠牲にし、企業成績の向上のために時間を削る。あるいはそれを自己実現だとしてモチベーションのすり替え理論を身に付ける。
 
女性であれば、そのような企業至上社会(男性社会とは言わない)を前提として、家庭を守り子供を育てることを強いられる。
 
旧来型の夫婦像だが、今だって変りはしない。学生時代あるは独身時代の(一見)享楽的な生活が結婚後できなくなってしまうので、今の「逆ギレ」の親たちが発生しているだけのことだ。
 
そのどこにも「幸福」なんて転がっていないのではないだろうか。
 
毎週、自宅から1時間以内の場所へゴルフに出かけ、家にはテニスコートやプールがある生活(まるで大橋巨泉だが)が豊かな生活か?確かに豊かだし、ひとつの究極かもしれないけれど誰もが巨泉になれるわけじゃあない。
 
景気回復の先に真の豊かさが見えてくるのか? 私には、享受できる「豊かさ」が見えない。自分が「享受したい豊かさ」はあるけどね。
 
宗教でも哲学でも単なる精神論でもない、「幸福論」や「豊かさ」という概念が日本には欠如しているんじゃないだろうか。特殊な場における幸せではなく、毎日の生活における「豊かさ」という発想が。

2001年7月20日金曜日

選択するとしたら その2

以前に書いたこと(7月16日)の繰返しになるのですが、再び思うことを書いてみます。
 
村上氏の前提は、競争社会と階層差の発生を容認することが前提だと思うのです。競争するかしないかは個人の自由であるとしても、全ての人がそれを放棄することはあり得ません。結果として非常に高給をとる人たちと、そこそこの人たちに分化すると思います。
 
年収2億円の人と、年収200~1000万円程度の人(大部分でしょう)が一緒の場所に住めるとは、到底思えず、ローカルな都市としてのセキュリティや階層化ということも発生するのかもしれません。今でも入りづらい店や会員制などの場所は存在しますが、前提として「入ることが出来ない領域」が増加するかもしれません。現にアメリカでは、ゲートで街に入る人をチェックするように囲い込まれた都市が存在すると聞きます。もっとも、日本では狭い土地しかありませんし、都市の成り立ちを考えても、そうは(したくても)ならないという気もしますが。
これらの社会構造が、不公正感(公平にはならない)なしに実現されなくば、階層間(日本に階層がないという考えはもはや幻想でしょうか)での不満は増大し、今までになかった形での犯罪が増加するかもしれません。教育に対する投資ということで考えると、ますます階層差を助長する仕組みになってしまい、教育を受けられる層と受けられない層に分かれることも考えられます。
 
教育投資や教育闘争から離脱して、それでも年収2億を得たいという人はいるわけで、芸能やスポーツ面、芸術面などに競争の場を移すでしょうし、棚ボタ的な報酬を期待する人も増えるでしょう。
 
金持ち(ああ、嫌なコトバ)の家庭が世間体とは裏腹にバラバラで精神的には決して幸せじゃないとか、ヘッジファンドで高額な報酬を得たエリートが自分の仕事の虚偽性に不満を感じるとか、忙しさの中に自分を見失っていると気づくとかは、ドラマ的ではありますがステロタイプ過ぎて実態を表しているようには思えません。たぶん、彼らの多くは不満の方が少ないんじゃないかと思います(あくまで 多分)。
 
容認するしないに関わらず、競争社会というのは、勝者には幸せかもしれませんが、非常に救いのない社会構造のように思えるのです。
 
物質的、刺激受容型の幸福のみを求めるならば、年収2億円の人が幸せなのは自明かもしれません。それぞれの階層(ああ馴染めないコトバ)の人たちが、それぞれに幸せを感じ取れる社会というのは、人は何を持って「幸福」と感ずるかという問題に行き着くと思うのです。
 
人は一人で生きてはおらず、その存在を誰かに認められることで生きています。それは強者だろうが弱者だろうが大人だろうが子供だろうが、根本は同じだと思います。誰かに認めて欲しいということは、誰かを認めることで、それは人と人のつながりの相互の関係です。「努力の報われる社会」とはよく言われますが、「努力して報われなくても、認めてくれれば」救われるものです。
 
自分の仕事(家事にしても)が、誰かの役に立っていると思うから誇りも生じるのです。自分の仕事を「凄いね」とか「ありがとう」と言ってくれる人がいるから、やっていけるのです。
人が人として幸福を感ずるということの基本は、こういうことだとは思うのです。でも、そういう甘やかな理想論だけでは生きてはいけないのです。人は幸福感とともに刺激も求めてしまうのです。
 
そこで、なのです。あるべき社会の理想型というのは一体だれが示すことができるのかと考えてしまうのです。政治家は社会の仕組みを作りますが、現状では思想までは作りえないでしょう。(政治というのは高度な思想集団だと個人的には思いますが・・・・) 宗教が廃頽(と言うと怒られるでしょうが、一般論です)した今では宗教家でもだめですね、彼らとて経済幻想の枠組から自由ではありません。
 
社会の枠組みにつかりきった私のような親は、子に何を示せるのでしょう?

村上 龍の主張

村上龍のメールマガジンはご存知だろうか?JMM [Japan Mail Media]として、毎週非常にハードな内容のメールが送られてくる。
 
No.123 Wednesday edition のラストでの村上の提言は、今月私が引っかかっていた問題を、ものの見事に言い切っているので、一部を引用したい。
 
まず競争社会の中で戦っていくのか、それとも自分の好きな道を極めていくのか、その二つくらいの道筋は示していかないといけないと思います。競争社会に適した人と適さない人がいますから。それに加えて、別に全員が競争の中で生きていかなくてもいいんだとアナウンスすることで、すごく楽になる人がいると思うんです。本が好きだったら図書館で働けばいいし、花が好きなら花屋さんで働いてもいい。そういう生き方が、年収2億円より劣った生き方では決してないということを、誰かがアナウンスしないといけないと思います。

ところでです。例えば図書館や花屋で働く収入の低い(と言い切るのも何だが、今は二極論での話なので、例えとしてです)人の生活が、十分に幸せであることが保障されている必要があるわけです。少なくとも、生活を楽しむことが出来るだけの余裕がなければ成立しない考えでしょう。また、職業に対する「誇り」と「尊敬」も必要です。
 
物価水準や社会保障制度、公的施設の充実度、税率の問題、さらには教育(内容と教育への投資金額)と社会道徳的な問題など、非常に多くの要素が立ちふさがってるような気がします。
個人的には、仕事は住宅から30分以内の職場で午前8時から14時まで働き、帰って昼寝して、夕方から自由な生活を楽んだり、地域活動やボランティアをできるような生活(まるでイタリアかスペインのよき時代か)が理想ですなあ・・・全く程遠い生活しているけど。
村上龍のメールマガジンは、下記で申し込み出来ます。
 
【WEB】    http://jmm.cogen.co.jp/

2001年7月16日月曜日

選択するとしたら

共産党は好きになれないし、どうも論点がぼけていて、どうにもならないと思うことも多いのだが、彼らは「ワークシェアリング」ということを提案していたと思う。
 
ワークシェアリングとは、一人で今までやっていた仕事を複数の人に分け与えてこなしましょうという発想で、私の記憶が正しければドイツ(西)などで実施していた考え方だと思う。
当然、一人あたりの賃金は減るわけだが逆に自由時間は増えるというわけである。考え方は雇用の創出ということにあるのだが、共産党は「サービス残業をなくして、仕事を分け与える」とか、すこしズレた感覚で提案していたように思う。
 
共産党の主張がどうかはさておき、賃金が今の半分となるが仕事時間も減るか、賃金は今のままだが、労働時間も今か今以上というのを選択しろと言われたら、どちらを選ぶだろう?
そのときの物価水準がどうなっているのかという問題もあると思うが。豊かな生活て、なんだろうと、やっぱり思うのである。
 
最近の朝日新聞で、日本の企業も、優秀で企業を引っ張ってゆくゴールドカラー(当然、高給である)と、そこそこの業績だけど給与もそこそこという層に二極分化する、同期であっても年収で1千万円以上の差がつくこともあるかもしれない、と書いていた。
 
考えてみれば、今の教育制度にしたところで、一握りのエリートとそれ以外のフツーの人を作るという方向で進んでいるように思える。
 
どちらに入るのが幸せなんだろう?